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Think!

今年のキンモクセイの香りももう終わりっぽいな。して道端でOH!ってな感じの銀杏も。でも毎年、季節の移り変わりを突然知らしめるこれらの香りというか匂いというか、ある種のしるしは何かしらもの思いに誘うね。って別に詩人ぶってるわけでもないが、まあ、ありがたい気がするわけだ。空の奥ゆきとか透明感とか。

この時期にしては異常な気温だとかなんとかたしかにあるようだが、いいんじゃないスか。ここうん十年の平均とかなんかで取沙汰しても、やっぱうん十年でしかないし。そりゃいろいろあるよ、地球にしろ人間にしろ。100年1000年何十億年単位ではまた何かのサイクルでもあるんでしょう。してまた、何かのしるしでもあるのだろう。

それでも、何かに気づくというのはいいことだ。何に気づくかはいろいろあるだろうが、何に気づくかで人の変わり方も変わるようだ。行動、行為が変わる。ちょっとだけ変わる人もいれば、とんでもなく変わる人もいる。半田広宣氏も、人は昨日と同じである必要はまったくないと言ってたのを思い出す。ジョン・レノンもたしか、ヨーコと結婚して、いろいろマスコミに叩かれて、イギリスの雑誌編集者の女にヨーコと一緒に抗議に行った映像があった。丁々発止やりあった後、その女編集者が、実はあんたのファンだったとちょっとメランコリックに呟くシーンがある。したら、皮肉屋だったころの俺だろ? でも俺は変わったんだ、とか言っていた。私の記憶だから正確ではない。中島みゆきも「世情」という歌で、♪時の流れをとめて、変わらない夢を、見たがる者たちと闘うため~♪とか言ってたな。

いや別に、変わりましょう♡などと言いたわけではない。それじゃなくても私のように、久しぶりに会うヤツ皆に、お前変わってないなあ、髪の毛以外、と言われるようでは説得力もない。あ、そうそう、私はこう見えても、高校大学とファンクラブがあったくらいなんだから、そりゃもう大変なものである。いやマジで。髪があったころね。で、そのファンクラブ会長とやらが私にアプローチしてきてちょっと付き合ったことがあったが、そいつはその後、会員に袋叩きにあったという折り紙付きだ。と言っても、ファンクラブがあったことすら私は知らなかったのだから、まあたいしたことはないわな。

それにしても、人の妄想力というのはすごいもので、私のファンクラブごときはどうでもいいのだが、人はほとんど妄想で生きていると言ってもいいくらいのものではないか。罪のないかわいい妄想から壮大で荒唐無稽的なものまでいろいろありそうだ。だってあれでしょ? いわゆるブッシュみたいなキリスト教原理主義福音派、エヴァンジェリストたちなんかは、徹底して予定説を信じているわけだ。予定説ってば、あれだ、神はことごとく見透かしてるから、つまり誰が善人で誰が悪人かをすべてわかっているから、この世で何をしようが、すでに天国行きと地獄行きが決まってるって話だ。カトリックのように善行を積んでもムダで、すでに決められている。でも、人間には自分がどっちに選ばれてるかわからない。でも、現世で努力、したかどうかはわからないが、一応経済的に成功し、富を蓄えている人々は、きっと我々は天国行きが定められているからに違いない、富はその証しだ、だから地獄行きが決まってる飲んだくれの貧者などは救う必要もない、早くハルマゲドンでも起こして、最後の審判を受けて、我々だけで天国へ行こうじゃないか、ってなもんでしょ? 極端に言えば。

昔、トリスを飲んで天国へ行こう!ってコピーがあったが、トリスを飲んでる酔っぱらいの貧者の私なんかはどうなるんでしょうか。

まあ、妄想でも理想でもいいが、エヴァンジェリストとか、右手にコーラン左手に剣みたいなイスラムも含めて(偏見もあるだろうが、まあ争ってるのは確かだ)、ひ弱な私にはちょっとぉ…てのもある。

初めに言葉ありき、でもいいんだが、聖書でもなんでも言葉をそのまままるごと信じて原理にしてしまう、というのはやはり違う気がする。気がするとしか私にはまだ言いようがないから情けない。なんか違うんじゃね?的なものを唯一自分の判断基準で生きてきたからどうしようもない。あるいは逆に、これはなんかとっても大事なんじゃないかって「感じ」ね。でも、「感じ」だけじゃしょうがないから、私のような向学心あふれる人間はいろいろ考えるわけだ。体験もする。で、また考える。「思考」がダメだって話もあるが、私も場合によっては賛成だが、やはり思考は必要だと思うわけだ。それは知識をもたらすからだ。

もちろん、体感的なことで得る知識もある。あるものを感じる。ブルース・リーじゃないが、考えないで感じるということだ。私もヘタな武術をやってるのでそれはわかる。でも、そういうことではない。そうした体感的なもので得る知識は、思考停止、あるいは感得した境地に安住すると、おそらくその先、排他的排外的な方向に行く可能性があると思う。これは相当面倒くさい話になるので、また別に書くつもりだが、ともかくアブナイ「感じ」がする。

もちろん、体感で感得することが悪いはずもなく、私なんか左脳偏重症とバランスをとるためにもいろいろトライしてるわけだが、逆にそれだけになるとヤバイことになるとも思っているわけだ。徹底した思考も同じように大事なのだ。思考は言葉を使うわけで、思考を進めていけばいくほど必然的に新しい言葉なり論理を探っていくことになる。で、ある体系が形作られてもくるのだが、それはそれでさらに検証が必要になってくる。してこれは、独りでやってもいいが、多くの人間と検証していくほうが広がりが出る。あーでもないこーでもないってヤツだ。そうして集められてくる新しい知識や論理は皆の共有財産になる。なんだそれは、ただの民主主義じゃないかって言われそうな気もするが、だとしたら今の民主主義はお粗末すぎるし、材料の言葉や論理が貧困すぎる。まだまだありまんがな、ってことです。

そうした知識と先の感得して得る、まあ知識を、合わせて叡智と呼びたい気がするが、これも微妙にしゃらくさい。でもこうして言葉で書く以上、私なりのつたないレトリックで表現するしかない。

前にも書いたと思うが、というか最近こういう表現が多くて自分でもいやなのだが、前に自分で何を書いたか確認するのが面倒くさいだけだ。大澤真幸の書籍の紹介で引用したと思うが、たとえば、イチローが10年連続200本安打を打った、と聞いて、へえそうなんだで終わる人もいれば、なんてことだ!と感激に打ち震える人もいる。それは、100年を超える大リーグの歴史の中で、10年連続で200本安打を打った選手はひとりもいない、という知識があるかどうかで反応が変わるわけだ。野球をまったく知らない人でも、そういう知識を得れば、すげえな、くらいはわかる。まあ、どんなことでも、あ、そう、で終わる人もいるからなんとも言えないが、少なくとも知識があるとないとでは受け取り方が変わる。

なんで、こんなことを書くかというと、私がおとといかな、そうだったのだ。私はそれなりの野球少年だったが、ヤクルトが優勝した翌年から野球を見るのをやめてしまった。大のヤクルトファンだった私は、一度も優勝したことのない唯一のチームだったヤクルトを応援し続けてきたわけで、優勝したらなんか興味がなくなった。それもなんだかなーと自分でも思うがまあいい。だから野球にはすっかり疎くなっていて、おととい地元の居酒屋で例のごとく泡盛を飲んでたら、隣の常連とマスターが話し出して、マーくんはすげえな、と。マーくんって誰だ?と聞くと、何でも楽天の田中なんとかって投手が開幕連続24連勝で、これはもはや今後も絶対に破られないだろうみたいなことだった。詳しく聞くと、さすがに私も野球はわかるから、そいつは凄すぎると理解できたわけだ。

なんか、ちんたら書いているが、実はこれから町田で、軽い高校の同窓会があるのだ。オーストラリアで旅行代理店を営んでるヤツが久しぶりに帰国するので、みんなで飲もうってわけなのだが、明日、早くに重要な打ち合わせがあるので、今日は飲みすぎないようにしなきゃいけないと頭のどこかでプレッシャーになっていて、でも私のことだから、とことん飲んでまたしくじって…と不安になり、とりあえずブログでも更新しようとごまかしてるわけだが、どうやら時間切れだ。

それでもあまりにも中途半端だが、要は知識は大事だよってことだ。なんというか、のらりくらり、じゃいけないが、いろいろ面倒くさい思考手続きを踏んで、その果てにハタとわかることがあるということで、しかもほとんど重要なことはそのようにしてしかわからないのではないかということです。とは言え、みんながみんなそんな面倒くさいことにかかわる必要もなく、かかわるべき人がかかわればいいとも思うが、これはかかわるべき人は、神でもなんでもいいが、そういう必然的絶対的な流れや恩寵でかかわるものではないだろうということはなんとなく感じる。そういう外部からのものではないと思う。やはり自分の意思と意図なのだ。少なくとも超越的な外部は、論の中で措定するのはいいが、絶対的存在としてアプリオリに措定しないほうがいいと思う。それじゃこれまでの繰り返しだ。

そうではない哲学?が出てきてるですよ、いろいろ。そこんところもっとみんなで話し合おうってことだ。もちろん生活共同体的な視線からのアプローチも必要だし、それこそ社会システムの変換みたいな大きなことも考えていかなきゃならんだろうが、と同時に、新しいというか隠されていたというか、何じゃそりゃあ的な宇宙観を構築しなくてはならないのではないか? こっちのほうが先かもしれない。こっちのほうが早いかもしれない。とんでもないブレイクスルーが起こりうる。

中学の時に観に行った『パピヨン』って映画があって、今思い出した。ラストシーンがいまだ印象的なのだが、それはいわゆる自由を求める云々ではなく、いやそれもあるが、あの島で…って、これはネタバレってことにもなるのか。ええーと、ちょっとラストに触れるので、一応…で、私が考え込まされたのは、あの島で一生暮らしてもそれはそれでいいんじゃないかという立場と、実際ダスティン・ホフマンはそうするわけだが、断崖に打ち寄せる波を眺め、研究し、その法則を知ったスティーブ・マックイーンが脱出の可能性を知り、実際に飛び込んで生き延びるわけだが、これは単純な、自由を求める男的な映画ではなく…もうちょっと説明したいが、時間がなくなったので、次回付け足します。ってもたいしたことではありません。別に引っ張ってないし、そんな内容もないのだが、本当に時間がやばくなったんで。すみません。

こんなんでアップして大丈夫かな…
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発進!

ちょっと待って!と言っても、プレイバックする言葉もない…
また、一カ月とは。
早いというか怠慢というか選択の余地はないわな。

東京は梅雨入りしちゃったぞ。
っても、我が家はついこないだまで非難ゴーゴー雨あられ。
またも馬鹿がバカやってくれたとしまいにゃあ完全にあきらめモード。

まあ、週末にはアップップしますです。

にらめっこでもしましょ。

モンティ・ホール問題

もはや言い訳はすまい。

筆不精もいいところだが、私は今、無精ひげをだらしなく生やし、不承不承PCの前にいる。不承不承というのは面倒くさいとか書くのが嫌だとかいうことではなく、2時間後の6時には来日してる韓国の知人と食事というか飲まなければならないので、どうせ飲んだらまた今日も書けず、明日にしたって男には7人の敵がいるといわれるあの外の世界に向こう一週間出かけることになり、7人もの敵と戦えば疲れるだろうからどうせまた夜飲んで書けず・・・となるのが目に見えてるから、今ただちに記事を書こうとするのだが、時間がなくてじっくり考えることもできずに書くわけだからロクなもんじゃないだろうと忸怩たる思いにも駆られ、でも書かなくちゃいけないだろうから、不承不承なのである。

まあ、たわ言はいいわ。

この前知人に貴志祐介の『悪の教典』を借りて読んだ。スゴイから読めということだったのだが、私としてはイマイチだった。初期の『黒い家』ほどのインパクトはないし、『天使の囀り』のような斬新さもない。ただ、貴志祐介という作家は、人を思いやるという普通の感情を生まれながらに持たないサイコといった人物像にやはり興味があるのだなあとあらためて思った。『黒い家』は衝撃だったからね。というか、個人的にはああいう小説はワリと怖いというかある種の嫌悪感がある。先の『天使の囀り』にも何か嫌悪感を感じた。嫌悪感というのは私の場合必ずしも非難ではないのだが、いずれにしろ何かしらの感動を与えられたのはたしかだが、この嫌悪感はまた今度考えてみよう。

『黒い家』は映画もよかった。小説の世界感をうまく出していたし、何と言っても大竹しのぶの怪演が光っていた。まあ、この『悪の教典』もずいぶんと映画にしやすそうな内容だ。でも貴志祐介はあまり好きではないな。

この『悪の教典』の中で軽いエピソードとしてある問題というかクイズのようなものが紹介されている。私流に簡略化して言うと、

ここに3コの箱、ABCがある。1コの箱の中にだけアタリがある。あとの2コはハズレというか空だ。あなたはどれがアタリかを考え、まあAを選んだとする。すると出題者は、残りの箱BとCのうちCを開けて見せる。ハズレ、空だ。そこで出題者は、あなたはAを選びましたが、再度AかBかもう一度選び直すことができます、と言う。ここで問題です。最初にAを選んだときに当たる確率と、2度目にAかBか選び直したときに当たる確率を求めなさい。

最初にAを選んだときは、ABCの3コの箱のうちから1コを選ぶんだから、三分の一、つまり確率は33.3%、2度めのときは、ハズレを1コ除外したとはいえ、AかBのうち1コを選ぶんだから二分の一、つまり50%、そう答えた方、私はあなたの味方です。

もちろん答えは違う。最初のAは33.3%でいいが、2度めは、Aは33.3%のままだがBの確率は66.6%にハネ上がる。ちょっとした数学だが、説明が面倒だ。これはモンティ・ホール問題といって有名な問題らしいが私は知らなかった。そして、その正解の説明を読んだとき強烈な違和感を持った。

正解の詳細な説明は上記リンク先のネットでもなんでもあるので読んでもらうとして、簡単に言うと、最初のABCそれぞれの確率は等しく33.3%だが、Aが33.3%だとすると、残りのBCをまとめて選べるとした場合、BかCにアタリがある確率は66.6%になる。上の問題の場合、そのうちの1コCを除外しただけだからBの確率が66.6%になる。つまり、2度めに選ぶ場合は、Bにしたほうが当たる確率が上がるというわけだ。

うまくイメージできない人がいるなら、当たらない確率から考えたほうがわかりやすいかもしれない。最初のチョイスでは当たる確率は33.3%だが当たらない確率は66.6%だ。当たらない確率のほうが高いわけだ。当たり前だ。3コのうち2コはハズレなんだから。となると、最初のチョイスでハズレを選んだと仮定すると、2度めのチョイスでは最初に選んだものではなく残ったものを選べば確実に当たる。だって出題者がハズレのほうを開けて見せてくれているんだから。パターンは下記の3つしかない。

A    B    C
アタリ  ハズレ  ハズレ
ハズレ  アタリ  ハズレ
ハズレ  ハズレ  アタリ

つまり、2度めに選ぶ場合、Aがアタリになるのは最初に選んだAがアタリのときしか当たらない。だから、2度めにチョイスする場合は、最初のものとは変えたほうが確率論的には有利だということだ。

違和感を持った人、手を挙げてください。いませんか?

私はものすごく違和感を持つ。なぜか。それは、最初の選択が間違っているかもしれないという前提で展開されてる論だからだ。たしかに確率論的にというか数学的には正しいのだろう。だから、2回めの選択のときには最初に決めたものと違ったものを選んだほうが得なのだ。でも、人は何かを選ぶとき、その人の性格的、環境的、思想的、なんでもいいが、その人独自のバックボーンによって決め方は違うだろうが、まずは当てようと思って一生懸命考えるんじゃないか? いや別に考えなくても頭カラッポでもいいが、またそのほうがいい方向に行くのは間違いないが、今はその話ではない。

何が言いたいのかというと、人が何かを決断する場合、積極的な方向、前向きな方向に向かって決めるのが普通じゃないかと思うわけだ。先の問題で言えば、Aが当たると思って選ぶわけだろう。よし、この箱がハズレだと思っては選ばないだろう。そう思ったら消去法で違う箱に絞っていくだろう。ここでミソなのは、最初AならAと決めたあとに、出題者とやらがCのハズレを見せて、再度また、さあどうしますか?と言わんばかりに選ばせる、つまり惑わせる。不安にさせる。だから、確率論的にどうであろうが、最初にAを選んだのなら、出題者がどんな小細工しようが、2度めもAでいいのだ。Bでもいいが、少なくともAとBは50%の確率だということで選び直せばいい。そういった態度というか考え方というか、そっちのほうが正しいと信じるのは私だけか?ひょっとして。

世の中にはそのテのゴマカシというかマヤカシが溢れてる。数学は一つの思考実験というかゲームというか、ある枠内で通用する遊びごとだ。どんな数式だって、=(イコール)の左右が等しくなるようにあーだこーだ言ったり妙な函数を発明してるにすぎない。

数学的には正しいのかもしれないが、最初にまず間違ってる可能性を考えるというのは、人間を消極的にさせる。リスクがあろうが、可能性が低かろうが、その人間が達成できると本気で決めたら事態は変わるのだ。量子物理学の観測者効果でもそうだが(突然だが、今りょうしぶつりがくと打って変換したら、漁師物理学と出てずっこけた)、私は実は量子論も仮説としか思っていないし、今度は何が出てくるやらといった感じで待っている。じゃないと、量子論ではこうなんだから、といったただの仮説を金科玉条にして異説を排除するような500年前と同じ誤ちを犯すことになる。

いかんまた話が飛びそうだ。

ともかく、数学は危険な側面があるということだ。数にしたって便宜上発明されたんだろう。古代は、ひとつ、ふたつ、あとはたくさん、といった概念しかなかったという説もある。つまり、木の実でもきのこでもいっぱい採って、ひとつはあなたに、もうひとつは私に、あとはみんなに、ということだ。

余計な数学的な計算の果てが金融工学だろ? で、クラッシュだ。いいことは何もないよ。ただ数学的な目くらましを使ったほうが人を支配しやすいわね。論争でも議論でも、数字的な事実を突きつけられたほうがだいたいまごつく。

だから、先の問題で2度目めの選択は50%と思った人には親近感を感じるしだいであります。決して数学が苦手な私のヘリクツではない。

時間がない。案の定の尻切れトンボ。
外出しますわ。雨はあがったのかなあ・・・

フライングダッチマン

おぅっと、早い更新だ。ケツに火が点いた仕事を飯も食わずに一段落させて、やっと中華屋へ。カレー焼きそばでビールをたらふく飲み、なんだかんだで地元の飲み屋へ。またこのマスターが熱いというかなんて言うか、まあ、よく行く店なのだが、私が泡盛を注文するといきなり妙な曲をかけた。なぬ?これ誰?と聞くと、なんとかダッチマンと言う、え?フライングダッチマン?と言うと、ああそれそれ、だと。初めて聴いた。気にはなっていたが、これがフライングダッチマンなんだと、泡盛を飲みながら少し聴いた。それから、ジュリーの反原発ソングとか、メジャーからは絶対買えない曲のオンパレード。でもアマゾンでは買える。ああ、ジュリーは無理みたい。

けど、フライングダッチマン(以下、FD)も海外あたりで火が点いたんでしょ? 違ったっけ。やたら暑苦しいのが気になるが、これくらいの紋切り型系のヤツらが今は必要なのかもな。

実はすでにかなり酔っぱらってるので、このくらいで。とりあえずFDの「ヒューマンエラー」を貼っておきます。

世情

さても怠け者の本領発揮で、あっと言う間に日曜日。お盆進行の本業のほうもケツに火が点きはじめた。でも連日の猛暑、誰が仕事するんだろう。半日仕事できればかなりの精神力の持ち主なんじゃないか。思うにこれは、いいかげん人間に仕事をやめさせようとする太陽の意志なんじゃないだろうか。

労働意欲がまったく失せるもんね。みんなでとりあえずもうやめたって言いいませんか? だって暑いんだから。落語だったらありなんだけどなあ。せめてお金のために働くのをやめるってのはどうかしら。世界中で今いっせいにお金を捨てても実は誰も困らないんじゃないか。インフラはそのまま。電車はそのまま動くし、食い物屋もそのまま。コンサートも開かれるし、だいこんもギターも今までのように作られる。原材料も同じように調達される。ただお金との交換はない。そうすれば今まではやりたくもないのに、あるいは適職でもないのにコネや金のためにだけやってたヤツがやめて、逆に才能があって適職だったにもかかわらずコネもなく、くだらない試験に落ちたためにその仕事ができなかったヤツが喜んでやりはじめる。やめたヤツだって、しばらくすりゃ本来やりかったことを見つけて何かやるよ。みんな働かなくなるってな話もあるが、人間そんなに強くないって。何にもしないで楽しいわけがない。金のためにやりたくもない仕事をしてるからおかしくなるんであって、何の心配もなけりゃ自分が楽しいことを探して一生懸命やるって。

なんだか怠け者の屁理屈のようだが、とにかく暑かった。今も暑いが多少和らいだ。さっき生ビール飲んで帰ってきたばかりだから文章がへんだ。

前回は24日に地震の啓示の記事を書いた。地震はこなかった。祈りの力で本当に新しい島生みのエネルギーに転換されたのだろうか。ネタもとのこのブログにもいきさつが記してあるが、私も記事にした手前、追ってことのなりゆきをその都度記事にするつもり。前にも書いたが、私は予言のようなものはある種の警告としてとらえていて、基本的に未来は創造できると考えているのだが、今回のことは個人的に気になっているのです。

ロンドンオリンピックの開会式を後半だけ録画でみた。ポール・マッカートニーが歌ってたね。セレモニーの終わり、ビートルズ『アビーロード』の「The End」を歌うのは流れからいってわかる。でもいきなり「Hey Jude」は、おろ?っと違和感があった。なんでHey Judeなのって感じ。世界的なビッグイベントの終わりの歌にしちゃあ、ずいぶん私的な歌を持ってきたなあみたいな。あれはジョンが前の奥さんと離婚したときに、5歳の息子のジュリアンが悲しんでるのを見てポールが慰めようとして作った歌だ。なあジュリアン、くよくよすんなよと。どんなに悲しいことでもそれを手放して、また受け入れればそのうちいい方向に持っていけるさみたいな。でも、それは他人に頼るんじゃなくて自分でやらきゃだめなんだみたいな歌だ。あれ? でもけっこう普遍的な意味合いにもなるじゃん、ってふと気づいたわけだ。ビートルズなんだから誰でも知ってる「Let It Be」くらいでいいんじゃね?と単純に思ってたが、よく考えたら、ありのままでいいんだってのは今の世界情勢を鑑みればあまりふさわしくないわな。ふーむ、考えてるねえ演出者も。ってうがちすぎかしら。

でも、歌詞の、The movement you need is on your shoulder.ってのはその通りだ。自分に必要なことは自分でやるしかない。だいたいが我々は他人にあるいは外部に依存しがちだ。自分がうまくいかないのは他人のせい、会社のせい、世の中のせい。それらに自分は正当に評価されていないと思う。外部の評価に依存してるわけだ。たまたま自分が気分よくなる評価を受けるとそれはそれでうれしいのだが、たとえば人との議論でも自分が認められたと感じられればその間は人にも寛大でいられるのだが、ちょっとまた低く見積もられればすぐにムカついたりする。ゼランドも言ってたが、感情は外部との関係の結果にすぎない。ロボットじゃないんだから感情をなくすことはできないが、対象との関係性を変えることで感情は変わる。

ロボットといえば、こんな実験があった。まったくアトランダムに動きまわるロボットがあって、そのロボットと生まれたばかりのヒヨコを同じ部屋に入れる。ヒヨコはロボットを親だと思ってピヨピヨとあとをくっていてまわる。ロボットはもちろんヒヨコを無視して勝手に動きまわる。でもそのうち、ヒヨコがピヨピヨ鳴くとロボットがヒヨコのほうに寄ってくるようになる。これは何度実験しても、統計的に有意な結果になる。ロボットに感情というか意志が芽生えたのか、それともヒヨコがロボットの動きを予測するようになったのか、あるいはヒヨコの意識がロボットの動きを創造しはじめたのかはわからないが、でもこれは先の話とは大きくずれるか。

いかんやっぱ酒飲むと話が飛びはじめる。

酒っても、誤解されるムキもあるかもしれないが、私は酒は強くない。だから酔っぱらうし二日酔いにもなる。本当に強いヤツは酔わないもんね。いや、酔うけど、なんというかえんえんと飲み続ける。松田優作が昔ブルータスかなんかのインタビューで、松田さんってお酒強いんですかあ?ってライターか誰かに聞かれて、強いから飲んでんだよ!と言っててなるほどと思った。そうか、酒は強くなきゃ飲んじゃいけないんだなと。男はタフじゃなくては生きていけないんだなと。だいたいアル中になるってのは酒が強いからなるんであって、弱けりゃゲロ吐くか、寝ちゃうか、すぐに体壊してる。私の同僚にも、アル中で、駅の切符の自販機で指が震えて小銭が入れられないヤツがいるが、ほんとに強いもんな。途中少し寝るんだが、起きてまた飲む。また少し寝て起きてまた飲む。その繰り返し。もうつき合ってらんない。前に一緒に飲んでた先輩なんか、飲んでてぶっ倒れて病院に担ぎ込まれたとき、ガンマGTPが4000以上あって、医者に死体の肝臓だと言われた。そんな人たちに比べれば私なんかかわいいもんだ。

何の話だ。

それはそうと、最近の一連の日本のデモを見ていて、久しぶりに中島みゆきの「世情」を思い出した。まったくもって暗い歌というか音調で、私はあまり好きではなかったが、当時なにかしら心には染みた。言ってることにシンパシーは感じるが、あれをもっと明るくというか快活にできないものか。いや違うな。あれはあれでいいのだが、それこそあの曲調だと、意識や行動が開いていくのではなく、ナルシスティックに内面的に閉じていく危険があるような。音楽はある種怖いね。高揚感のあるリフレインなんかは洗脳まではいかないにしても、どこか囚われてしまうような抗えないような強制力がある。たとえばジョン・レノンの「Mind Games」もそうだし、ワグナーの無限旋律もそうだ。ワグナーはナチスに利用もされた。

ともかく今、原発その他でかつての安保や成田とは違ういわゆるフツーであろう市民が動き出したことは気にしたほうがいいと思う。ある種のフォークや「世情」のような曲調のものには嫌悪感をもつムキもあるかもしれないが、それはかつての安保や成田のときの時代や独特のノリによってバイアスをかけられたからしょうがないのだが、今起きてるデモは、また違う流れを創る可能性もある。お祭り気分でも冷やかしでもファッションでもなんでもとりあえずはいいと思う。最悪なのは、わかったような気になって上から目線でシラけたふうに無関心を装う態度だろう。対象との関係性、態度で感情が決まるのだとしたら、本当はそうは思っていなくても、くだらないかっこつけと羞恥心を捨てられないばっかりに本当に世の中に無関心になってしまう。

世界は今や10億人が飢えているという。そういう人たちにしてみれば日本人の生活は奇跡だろう。亡き談志師匠に言わせれば日本は世界の一等地だ。悪神にやられてる国々は虎視眈々と日本を狙っている。当たり前だ。私が悪神だったら日本が欲しくてしょうがないもんな。でも最後の最後はグレンと…

ちょっと飲みすぎか。

とりあえず、「世情」です。


やっぱり重い。ここはジョンにも登場願おう。


うーむ。70年代というのは何か途方もないポテンシャルを孕んでいたのかもしれない。でも我々はこの道を選んだ。

ヨーコが次々と大きな窓を開けていくシーンがいいよね。窓には白い十字架が。そういえば冒頭のジョンの格好というかいでたちは、映画『エルトポ』を観て感動してマネしたんだよな、たしか。それでバイトの子の情報で今、渋谷で『エルトポ』を上映してるとか。マジ?とか思ったんだが、だってあれDVDないよね。映画館で観られるんなら行かなきゃまずい。誰か行きませんか?

それにしても先のオリンピックで、ポールもいいが、ジョンが出てきてイマジンを歌ったら、かなりの確率で私は泣くでしょう。どこぞのクソッタレに殺されずに今ジョンが生きていたら…

今日は寝ちまおう。
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プロフィール

∞酒林∞

Author:∞酒林∞
世の中の皆様こんにちは。
私はただの夢見る酔っぱらい。
夜な夜な昼間にそば屋うなぎ屋ラーメン屋、
飲んで歌って吠えてます。
いつまで続くか酔っぱらい。
帰ってくるのか酔っぱらい。

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