スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

時間よとまれ

今日は天気がいい。
もう少ししたら投票に行こう。そしてそのまま蕎麦屋で一杯やるか。

とは言え、木曜から風邪気味で、酒がうまく飲めるかどうかわからない。風邪気味というか風邪だ。発熱するかどうかという状態で、私なりのケアをして抑えてるだけ。いや、ケアなんてエラソーなもんでもないか。木曜の夜は、風邪を忘れるべく大酒を飲んだのだが、して実際よくなったのだが、風邪はしつこく、まだ体調がすぐれないから、性感マッサージというと聞こえが悪いが、本業は鍼灸師・気功師で、ボランティアとして名前を変えて、世の悩める奥様たちに施術をしている御仁から聞いた風邪への対処法、「∞酒林∞さん、風邪のときは、ビタミンCを飲んで寝てれば一日で治りますよ。いや、サプリメントの」と言うわけで、ありがたく実践し、例の風邪に効くツボ「風門」を温めただけだ。風門は、後ろの首筋の少し下あたりにあるが、ここに灸を据えたり、シャワーで温めたりするといいらしいが、私は面倒くさいしダルいので、ストーブの前に横になってスルメを炙るように首筋を炙ってた。そのせいかどうかはわからんが、いまだ大ごとにはなってない。今日ぐらいで治るだろう。と思いたい。

もう2012年も終わるということで、ふと思ったのだが、ここ1年で、世の中というか世界というか、周りの景色・ニュアンス・次元?がみるみる変わったといったような感覚が、個人的には3回あった。1回目めは、去年の10月28日、これはちょっとブログにも書いた。そして2回めはこないだの10月か11月のどこか。覚えてないんだな。メモしとこうと思ったのだが、忘れた。そして12月12日だ。12日以降は、最初の去年の10月28日と近い感覚で、あきらかに何かが変わった。周りの世界というか、おそらく自分の中の感覚だかマインドだか何かだろうが、世界でも自分でもこの際同じだ。何だこれは?といった感じもあるが、気分がいいからまあいい。そのうちもうちょっと詳しく書いてみる。

感覚と言えば、時間が速くなっているというか短くなっていると毎回バカみたいに書いてきたが、最近はもう当たり前になってきて、うちのカミさんにいたっては、午後1時過ぎるともう夕方だとか言っている。もっともこれは前に家が建ったので日当たりが悪くなり、洗濯物が乾かないという憤りからくるたわ言だが。

例のマヤの長期暦の終わりがくるという話も、フォトンベルトに突入するという話も、惑星ニビルが接近するという話も、太陽、地球、銀河の中心が一直線に並ぶという話も、一様に12月21~23日に集中していることから世の終末論も出てくるわけだが、これはしょうがない。終末がくるかどうかはわからないが、というかくるはずもないと思うが、個人的には、テレンス・マッケンナ博士のタイムウェーブゼロ理論のほうが興味深い。時間はらせん状に加速しているという理論だ。早まっているわけですね、どんどん。さっきから時間が速いとか早いとか表記がめちゃくちゃなのは、この場合どっちで表記していいかわからないからで、調べるのも面倒だからだ。

まあいい。時間が加速している。前にも書いたっけ? ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』の中の会話に、砂時計の話がある。砂時計をひっくり返したばかりでは、砂が落ちていくのはよくわからない。全然減ってないように見える。でも、残り少なくなってくると、とたんに砂が減っていく様子が目にも見え、最後のほうでは「加速度的に」減り、あっと言う間にストンと落ちる。砂がなくなる。・・・・・・というように時間がなくなる、というのがタイムウェーブゼロ理論だ。なくなるというのは違うか。また新たに砂時計がひっくり返され、新しい時間が始まる。と私は解釈する。それで、マッケンナ博士によれば、その砂時計がゼロになる時期がこれまた12月21日あたりなのだ。こっちのほうが私は気なる。というのも、去年あたりから頻繁に時間が短くなってきているのを感じていたからだ。最近にいたっちゃ、もうガキのころの記憶とか、体験した場面とか、匂いとかニュアンスとか雰囲気とかが突如間近に感じられ、おろ?私はいくつ?といったこともあるくらいで、今のオヤジの自分とガキの自分が同時にいる。若年性アルチューハイマーだという説もあるが。

いずれにしろ、時間は人類全体の集合意識が創り出しているらしいので、これまでのリニアな、そして体制側に都合のいい因果律に不当に干渉された時間軸の流れが終わるのだとすれば、それはいいことだ。それまでの砂時計がひっくり返され、まったく別の、まったく新しい時間が創り出されるはずだからだ。と言うか、創り出さなければならないだろう。われわれがだ。

時間の概念は重要だ。われわれが生きていくうえで必ずかかわってくる問題だからだ。われわれの葛藤のほとんどは過去への後悔と未来への不安からなる。だから時間にかかわっているとも言えるが、同時に同じ過去でも、充足・完結したよき思い出があり、同じ未来でも、よき未来への期待・確信もあるので、やはりそれは選択の問題なのだ。また私がウダウダ言っても混乱するだけなので、久しぶりにゼランドに登場してもらう。

 運命については意見が分かれる。ある人々は、運命は所有者である本人の手のなかにあると考える。また、ある人々は、運命はあらかじめ決められていると信じる。ほかにもっと遠大な考えの人々もいて、運命を、前世における各人の行いによって条件づけられ、神や天から遣わされた天恵か宿命と考えている。どのような見方が真理にいちばん近いだろうか。
 どれもが真理に近い。どの立場も確かであり、対等でさえある。鏡である世界において、そうでないということが果たしてあり得るだろうか。鏡の前に立つ誰もが、自分の思考の形(イメージ)を確認するのである。鏡に映る自分の顔が悲しそうに、また嬉しそうに見えることが、あらかじめ決められているだろうか、と鏡に問いかけても無意味なことだ。一方で、鏡にあるがままのものが映しだされ、他方では、自分がこうありたいと望むものを目にすることになる。そのため、運命についての問題とは、あらかじめ定められた運命を選ぶか、それとも自由な運命を選ぶか、という選択の問題なのである。要するに、選んだものを受け取るとあなたが確信するだけのことである。


Exactly! だからみんなで、不安をあおる予言とか、もっともらしいネガティブな結論などには飛び蹴りでもくらわして、夜空の果てに消えてもらおう。とは言っても、いっときのユーフォリアとか、ベルリン陥落寸前の地下壕で酒飲んで踊りまくるヒットラーの愛人エバ・ブラウンたちのような現実逃避もよくないわな。やはり大仰なことではなく、日々の暮らしを進める・クリエイトしていくなかにヒントがありそうだ。

ここのところ、下の娘が幼稚園に入ったころのことをときどき思う。いやたそがれてるんじゃなくて、彼女が言った言葉のことだ。当時、上の男の子は小学生に入ったばかりで、毎日私は彼に、今日は学校で何をした?と聞いていた。彼は、あれを習ったこれを学んだと教えてくれた。ついでにと言ってはなんだが、そのあと一応下の女の子にも聞いた。「○○ちゃんは何をしたの?」「ん?ただ遊んでるだけ」。毎回同じ答えだ。

最近それが思い出されて困るのだ。われわれは、ただ遊んでるだけでいいのではないか、と。もっと言えば、世の中でわれわれが為すすべてのことは、「遊び」みたいなものではないだろうか。経済活動でも政治でも家族でも、いわばゲームを楽しんでいるようなものかもしれない。よく考えれば、まんま遊びみたいな仕事は世の中にいくらでもあるだろ。だったらガキのように遊べとは言わんが、せめてガキのころくらいの想像力と創造力をもってみんなが楽しめるゲームくらいこしらえようや。

ってことになると思うんだが、どうだろう。

年内にまだまだ更新します。←珍しくやる気マンマン。
スポンサーサイト

鏡の法則

いやあ、なかなか仕事がフィニッシュしない。とは言っても、月曜には終わる。はずだ。ここ1、2週間仕事が集中し、疲労が溜まっていたように感じていたが、この間よく考えてみたら半分以上は飲み疲れということが発覚して愕然としたが、こう暑くちゃムリもない。どうムリがないんだかまったく理屈がわからないというか、いちいち考えるのも面倒くさくなるくらい暑い。したら生ビールでも飲んで体冷やして頭冷やしたほうがいいに決まってる。ロクな仕事できないって、この時期。

と言っても、ひところに比べりゃあずいぶんマシだが、それでも道行く人たちを見てると一様にしかめっつらしてたり、不機嫌そうだから、いよう、オトモダチ!ビールでも飲み行こ、と声をかけたくなる。でも実際は、お?いいねえ、と言ってくれる連中とだけ行くことになるのは、前に声をかけて頭がおかしいヤツに思われて気味悪がられたことがあるからだ。情けな。

私は高校のときから基本的にはそのテのダメさかげんだったので、会社員になってけっこう苦労したが、嬉しいことに似たようなヤツが必ずいるものだ。で、だいたいにおいてそいつらのほうが仕事ができる。当たり前だ。とっとと仕事を終わらせて早く飲みに行きたいし、実績がないとそんな態度は組織では許されないから、必然的に仕事ができることになる。でもそうは甘くなくて、会社によっては相当の実績をあげるヤツでも酒ばっかり飲んでれば追い出される場合がある。規律を乱すってヤツだ。実績よりも、つまり会社の利益よりも組織の規律のほうが大事なわけだ。ヘタすりゃ、酒じゃなくて、既存路線をはずれる大胆な企画や言動を発するだけで排除される。そんな例はくさるほどある。出る杭は打たれるってことだ。

でもこれは管理者というか支配者側から見た論理だ。組織のトップの懐が深いというか賢ければ、そんなことはないが、だいたい中途半端な権力を手中にしたヤツらがこうした排除をする。自分たちの立場が脅かされるからだ。本末転倒というか、会社の利益追求が企業の使命であるはずなのに、おのれの保身にだけ執着し、本来同じ釜の飯を食ってるはずの仲間を敵視する。こういう会社はいずれおかしくなる。今の官僚あたりが典型か。同じ日本人だろうに。違うのかな。まずいのは、官僚の場合は会社が潰れる程度じゃすまないということだ。政治家に関してはもはやギャグですらないから言うことはない。

まずい、話がつまらん方向にきた。

久々にゼランドにご登場願おう。

 全体としては、個々のリアリティの様相は、その人を取り巻いているあらゆるものとの関係においてどのような感情を持っているかにかかっている。しかし、同時に、その人の気分というのは、周囲で起きていることによって制約を受けるものである。リアリティは人の思考の形(イメージ)が反映されたものとしてかたちづけられるが、では、その形(イメージ)はというと、反映そのものによって決まってくる、というようにフィードバックが延々と繰り返される罠に陥ってしまう。(略)

 通常、ネガティブな感情は完全にその人の注意を奪ってしまう。人は、困っていることを案じる。人は欲しないことについて思いを巡らせる。こんなふうに逆説的なのだ。しかし、鏡は、人が望むものか望まないかを斟酌せず、ただ形(イメージ)の中身を正確にきちんと伝達しようとする。
 
 そうなると、きわめて馬鹿げた状況になってくる。人は受け入れられないものを常に引きずっているわけだ。「口は災いのもと」ではなく、「思考は災いのもと」なのである。馬鹿げているように聞こえるかもしれないが、実際はまさにこのとおりなのだ。

 人が何かを憎んでいるとき、どんなことが起きているのだろうか。その人はその感情に魂と理性の一体化したものを注ぎ込んでいる。明確な形(イメージ)は非の打ちどころなく鏡に反映されて、世界の層全体を満たす。憎んだものを自分の人生においてたっぷりと受け取ることになる。その結果、本人は一層腹立たしくなり、それによって自分の感情はさらに強まる。

 同様のやり方で、非難の対象は「非難する者」の層に押し入ってくる。典型的な例をイメージ願いたい。怒りを顕(あらわ)にした中年女性が非難を込めた眼差しで世界全体を眺めている。彼女自身が、「人々と法の良心の前における」厳格で絶対的に正しい法の裁きの権化となっている。自分以外のすべての世界は、彼女の気に入らないことに対して責任を負うべきだと思っている。鏡に映しだされる光景はきわめて具体的で明らかなものとなってくる。このように強いうぬぼれをもって鏡を覗く人は、自分の周りにそれと等しい現実、すなわち、やむことのない不当な現実を作り出す。世界としてはそうする以外に反応しようがない。世界は彼女を非難しているわけではなく、自分が正しいとも思っていない。世界は、その本質によって、世界についてイメージされるとおりの姿になるのだ。
 
 何かへの不同意の場合も同じことが起こっている。たとえば、もし女性がアルコール摂取にきわめて否定的な態度を取るのなら、彼女は至るところでそのような場面と遭遇するよう運命づけられることになる。彼女は飲酒にまつわる様々な出来事に常に悩まされる。それには彼女自身がアルコール依存症の男性と結婚するということまで含まれている。妻が飲酒に対して示す不快感が強ければ強いほど、夫はもっと大酒を飲むようになる。時々、夫は飲酒と縁を切ろうとするかもしれない。だが、妻が飲酒をとても強く憎んでいることから、自分の憎悪を文字通り噛みしめつつ、「あんたは飲むことをやめやしないだろうさ!」と怒りに駆られながら自分の思いを繰り返している。そして、もし夫に固い意図がなければ、飲酒を許せない気持ちにどっぷり浸った妻は、自分の思考イメージを夫の世界の層に実際に持ち込むこともあり得るのだ。

 悲観的なことを予想する傾向は、傍から見ていても、見ばえのするものではない。「どうせどうにもならないさ!」というタイプの気分はサドマゾ的である。悲観論者は、「世界の悪化はここに極まれりだ。どうせ俺も奴も一蓮托生さ!」という辛い定めを堪能しつつ、倒錯した喜びを得る。悲観的なことに喜びを見いだすこうした病的な習慣は、侮辱を受け入れる素地とともに、ひどくなっていく。「僕はこんなに素晴らしい! でも、君は認めてくれない! 奴は不公正きわまりない! もういい、僕は怒っているんだ、なだめようったってそうはいくものか! ええい、死んでやる、そうすればわかるだろ!(酒林注:ここで言う、「君」「奴」は「世界」のこと)」そして、結局どうなるだろうか。鏡にただ反映されるだけではなく、避けがたい不幸の光景がしっかりと強調されるのだ。腹を立てている者は自分で不運なシナリオを注文し、その後、「ほら、だから言ったじゃないか!」と勝ち誇る。ところで、鏡のほうはというと「承知しました!」と返事して、ただ注文を執行しているだけのことなのだ。(略)

(略)度しがたい大ばか者のために教科書に載せてもよいくらいの「黄金の」法則がひとつある。それは「もし私が自分を気に入らなければ、私は自分を気に入らない」ということだ。この同語反復(トートロジー)には、それがどんなに意外に思われようと、大半の人々が行動指針とする原則が含まれている。
 たとえば、容姿を例に取りあげてみよう。ほとんどすべての子供たちはとても愛嬌がある。では、自分の容姿に不満を持つたくさんの大人たちは、いったいどこから出てきたのだろうか。すべては、あらゆる不満をこちらに投げ返してくれるあの鏡からだ。自分に見とれる傾向のある者たちは美しく育っていくが、まさしくここに秘密がある。彼らは、「もし自分で自分を気に入っていると、気に入る理由がますますたくさん現れる」という決まりに従っているのだ。

 形(イメージ)が自分の反映に対して「なんだか私は太ったわ。痩せなくちゃ!」と言うと、まったく話が違ってくる。鏡はそれに対して無表情にこう返事をする。「ええ、あなたは太っていますから。痩せなくてはなりません」。あるいは、イメージが自分の反映に、「なんだか私は痩せちゃったわ。もう少し食べなきゃ!」と言う。すると鏡は「はい、あなたは発育不良に見えます。もっとたくさん食べなくてはなりません」と答える。リアリティは、聞いたことを請け合いながら、こだまのように応答する。


ちょっと引用が長すぎたか。鏡の法則の一部だ。要するに、世界はというか現実でもいいが、自分の世界・現実に対する態度を反映させるのだ。でも気をつけなくてはならないのは、世界は態度の中身だけを確認するということだ。つまり、人があることを痛烈に避けたいと思っているとすると、その避けたいもの・現象が明確に対象化されるため、世界はその対象化されたものをたんたんと現出させる。だから、ネガティブなことは考えてはいけないというか明確にイメージしないほうがいい。実現したい望ましいことだけをしつこくイメージする。

まあ、このあたりの対処法に関しては、ゼランドはかなり詳細な解説をしているので、また紹介します。

ネガティブなことをイメージしない、感知しないっても、なかなか難しい。いろいろな障壁になるのは「恐怖」とか「不安」なのだが、これも避けることはほとんど不可能だ。どうするか? 思いっきり不安になればいいし、恐怖すればいい。そしてなんでもいいから行動を起こす。場合によっては、恐怖や不安の対象や内容とまったく関係のない行動でもいい。基本的に恐怖とか不安は強烈なエネルギー消費を伴うから、どんどん生体エネルギーが奪われて弱っていくのだが、なんでもいいから「行動」することで、恐怖とか不安に奪われていたエネルギーを行動にまわすことによって、そのぶん恐怖や不安に使っていたエネルギーが減る。要するに恐怖や不安がやわらぐ。だから、なんか怖い目にあったときギャーギャー大声を出して走り回るとか、不安に取り憑かれたときにいきなり10キロのジョギングに出かけるとか、そういうことだろう。

でも恐怖や不安という感情は持たないようにするのが一番いいのだから、そして感情はものごとに対する自分の態度の結果生じるものだから、いろいろなものごとに対する自分の態度を変えれば感情も変わる。感情は抑えることはないというかできないし、押し殺して内面で煮えたぎってるのは最悪だから、態度のほうを変えてみればいい。そしてそれはわりと簡単にできる。

あとは、恐怖や不安の対象に関するオルタナティブを持っておく。第三の道ですな。天変地異でも失業でもなんでもいいが、不安で恐怖を感じるものがあれば、それについて何も考えないでいられればいいのだが、これだけ情報があればそうもいかない。だから、起きた場合の対象法をあらかじめ考えておく。もしそうなったら、こうしようということだ。天変地異であれば、食料の備蓄、防災グッズの用意、避難ルートの確認とか、失業であれば、転職先の確保、副業など、ふだんから予防というかオルタナティブをリサーチしておく。要は、恐怖や不安にとらわれてはいけないということだ。それは誰かさんの思うツボなのだ。誰かさん? 彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。妖怪人間でも宇宙人でもない。

それでもとらわれたら、思う存分、恐怖し、不安になればいいのだが、大事なことはそういう自分を許すことだ。とゼランドは言う。そして、なるたけ行動に転換していく。そして生体エネルギーを意図にもっていく。ゼランドの言う「意図」という言葉もある種特別な言葉だ。難しい。リアリティを創造する、自分の思う通りの現実を現出させるのは意図だ。願望でも行動でもない。

たとえば、頭がかゆいとしよう。まず、私は頭を掻きたいという願望を持つ。願望は頭を掻くという現実を現出させることができるか? できない。だって、私は頭を掻きたいという願望があるだけでは、何も起こらない。一生頭を掻きたがってればってなもんだ。では、腕を動かして、つまり行動を起こせば頭を掻けるか。これはいかにも掻けそうだ。行動が現実を現出せしめたと言えそうな気もする。しかし、最終的に頭を掻くという現実を現出せしめるのは意図なのだ。意図がなければなにも起こらない。頭がかゆい、頭を掻きたい、頭を掻こう、で意図して本当に頭を掻く。

うーむ。説明がうまくないな。自分でも完全に消化されてないからか。

何が言いたいかというと、なにか自分の望むことがあるとして、それを実現するのは、意図だということだ。願望は絶対に叶わない。願望である時点で実現されてないことに対する永遠の欲望が前提されている。意図とは、郵便受けに新聞を取りに行くような調子で、自分の望みを掴むことだ。要するになんの疑問もなくただ受け取れることを知っている状態。そしてそれは本当にそうなるのだ。

先の引用の中に、自分の気に食わない部分に意識を集中して鏡を見ていればますます自体は悪化するってのがあったが、これも本当だ。やり方によっては、逆に気になっていたホクロでさえ消すことができるのだ。

私は実は、容姿のこととはまったく関係がないが、ゼランド系の理論はウソだろうってことでちょっと実験したことがあって、それはものの見事に実現したことがある。たいした話ではないが今度書いてみる。

またとっちらかってきて収集がつかなくなりそうだ。落語的にホンチャンの演題でもあればいいのだが、私の場合くだらないまくらがあっちゃこっちゃいきながら延々に続くようなものだから、延々に続けることができるかわりに中身がない。

あ、世界は中身を確認するだけだからこれでいいのか。要するに私には中身がないということで。

雨があがったから飲みに出ます。

予言3.5

本や映画や人の言葉で気づかされたアフォリズムめいたものでもいいから毎日更新したほうがいいかも、などと出来もしないことはあまり言わないほうがいいね。今の世の中ボケーっとしている3、4日はすぐに経っちまう。

前にも書いたが、そもそもこのブログは酒にちなんだ話やスピリチュアルなことを飲み屋のバカ話程度に共有したいと始めたのだった。そう、酒場でマスターとくっちゃべってる隣に座ったおっさんとか、少し離れた席で意外にもスピリチュアル話で盛り上がってる若者グループとかとに近づいて、実は僕なんかもですねえ、かなんか言いながら交わって面白おかしく酒が飲めればいいみたいなノリ。実際酒場ではそんなです。

ここのところゼランドに話が集中したキライがあるが、「予言」に関してのことだったからだし、また「予言」に関してはゼランドが言うところのもの以上に腑に落ちるものが私の知る範囲ではなかったからだ。それでも、前回の記事はわかりにくいというか全然まとまってないし、ちょっと補足する。っても余計わかりにくくなるかなあ。

ゼランドが言ってることは、極端に言えば、未来は、いや現在も過去も自分の好きなように変えられるということなんだが、これはスゴイことだ。自分の人生は自分の思いのままになるというんだから、もしそうなら予言もへったくれもなくなる。自分で好きなように現実なり未来を創造すればいい。でも重要なのは、人は自分の世界の層しか創造できないということだ。これはパラレルワールドというのとは違う。人はみなバリアント(起こり得るあらゆる事象の構成要素)が現実化した同じ世界に住んでいるからだ。

しかし、一人一人にとってバリアントは自分だけのものなのだ。例えば運命においても、富める者と貧しい者、成功する者と失敗する者、幸せな者と不幸せな者というように、表面上からも明らかな違いがある。こうした人々は皆同じ世界に住んでいるが、各人にはそれぞれ自分の世界がある。そう考えると、貧しい者が暮らす街区と富める者が暮らす街区とがなぜ存在するのかということも分かる。(略)贅を凝らした作りの高級車の窓から世界を眺める者もいれば、ゴミ箱の中から世界を眺める者もいる。祝日で心はずむ者もいれば、自分の問題に心を悩ます者もいる。快活そうな若者たちのグループを見かける者もいれば、傍若無人にふるまう不良たちの一団を目にする者もいる。皆が同じものを見ているのに、目に映る光景はカラー映画と白黒画像のように異なる。各人がバリアント空間における自分のセクターに調整されているため、それぞれが自分の世界に住んでいる。これらの世界はすべてが互いに積み重なって層となり、私たちが住む空間を形成している。

だから、

ある層を別の層と分離することはできない。各人は自分の思考によって自分の現実を形作っている。そして同時に、この現実は取り巻いている世界と交差したり、相互に作用し合ったりしている。

ひとつの生物も存在しない地球を想像していただきたい。風が吹き、雨が降り、火山が噴火し、河が流れ、つまり世界が存在している。さて、ここで人間が生まれ、これらすべてを観察し始めた。この人間の思考エネルギーは、バリアント空間の特定のセクターでものごとを現実化させ始める。つまり、この世界においてその人間の人生を作り出すのだ。この人の人生はこの世界の新しい層である。別の人間が生まれると、もう一つの層が現れる。人が死ぬと、層は消える。あるいは死の向こう側で形を変えるのかも知れない。

(略)世界に生物がまったく存在しないと仮定してみよう。その場合、どのようなエネルギーが生物のいない空間でものごとを現実化するのだろうか。これに関しては、推測することしかできない。最後の生き物が死んだら、世界も消えてしまうのだろうか。もしその世界に誰もいなかったら、世界が存在することを誰が証明できるのだろう。もし誰もいなかったら、(私たちが理解するところの)世界が存在していて、それはこうだったと語ることすらまったくあり得ない。これでもう十分だろう。この先にあるさらに込み入った迷路に入るのはやめておこう。

ゼランドは、トランサーフィンは、自分の人生を自分の望む通りに進めていくための数ある実践的な方法のうちのひとつにしか過ぎないという。だからトランサーフィン自体にも過度の重要性を与えてはいけないともいう。この「重要性」という言葉にも解説が必要なのだが、過去記事にちょっと書いたことがあるので本を持ってない人は見てみてください。

何が言いたいのかというと、もしゼランドが言うように現実を創造できるなら、いい予言ならともかく、破壊的な予言は回避できるというより無視できるのではないか。ということなのだが同時に、人は自分の世界しか創造できないのはその通りだが、他の人の層とも絡まっているので話はそう簡単じゃないゾということだ。前回も同じようなことを書いたのだが、不用意に「罪悪感」なんていう言葉を使ったので余計わかりにくくなったかもしれないから、ここで「罪悪感」についてもちょっと触れておく。

罪悪感とは純粋な形の過剰ポテンシャルである。自然界では善悪の概念が存在しない。良いふるまいも悪いふるまいも、平衡力にとっては等価値である。過剰ポテンシャルが起こると、いずれにせよ乱されたバランスの回復が図られる。あなたが悪い行いをし、それを認識し、罪悪感をいだく(我に罰を与えよ)と、ポテンシャルが作られる。あなたが良い行いをし、それを認識し、誇りを感じる(我に褒美を与えよ)と、やはりポテンシャルが作られる。平衡力は、何に対して罰するのか、または報いるのか、ということについては、まったく関知しない。平衡力は、エネルギー場において発生した異質なものを取り除こうとするだけなのだ。

罪悪感に対する報復は、常に何らかの形の罰である。もし罪悪感が生まれなかったら、その後に罰が続かないこともあり得る。残念ながら、良い行いを誇る感情も、褒美ではなくて、罰をもたらす。なぜなら、平衡力にとっては、良い行いを誇るという過剰ポテンシャルを解消することが必要だからである。もし褒美をもたらしたら、かえってその感情をあおるだけになってしまう。

このへんも、「平衡力」とか「過剰ポテンシャル」といった特殊な言葉が出てくるが、先の前記事を参考にしてください。要するに、この世はエネルギーなので、自然のエネルギーは平穏な状態がつまり常態だから、人間の思考エネルギーによって何かに過剰に意義(重要性)が与えられると、エネルギー場に擾乱が起き、それをもとに戻そうとする動きが働くということだ。

ところで、「厚かましさは第二の幸せ」という言い習わしは、なぜ存在するのだろうか? 通常、平衡力は良心の呵責に苦しんでいない人々に影響を与えたりはしない。その一方で、神はろくでなしたちを罰すればいいと思うし、正義が勝利しなくてはならず、悪は罰せられるべきだと思う。しかしながら、それがいかに痛ましくとも、自然にとって正義感というものは存在しない。逆に、生来の罪悪感を持つ真面目な人々には、常にありとあらゆる新たな災厄が襲いかかるのに対し、良心のかけらもない恥知らずな悪党たちは、しばしば罰せられずに済むばかりか、成功までも手に入れることがある。

罪悪感は必ず罰を受けるシナリオを用意する。それも、あなたの意識とは無関係に。このシナリオに従って、潜在意識があなたを、報復を受ける方向へと導く。よくても切り傷や軽い打撲、または何らかの問題が発生する。悪くすると、事故に遭って重い後遺症残るかも知れない。これが罪悪感の仕業である。罪悪感の中身は破壊することだけで、有益なことや建設的なことは何もない。良心の呵責で苦しんではいけない。良心の呵責は何の解決にもならない。それよりも、後になって罪悪感を覚えないで済むようにふるまう方がよい。しかし、もし罪悪感が生じてしまったら。無駄に苦しむのは意味がなく、そうすることはだれにとっても好転にはつながらない。

まあ、異論もあるかもしれないが、罪悪感とはできるかぎり縁を切ったほうがよさそうだ。これは「原罪」といった概念の検討にもつながることだが、話がズレる。

罪悪感を持っている人々は、罪悪感を持っていない人々の意志に常に従う。もし私が何らかのことで罪を犯しているかも知れないとの認識を潜在的にいだくとすると、私は無意識のうちに罰を受ける準備をしており、そのことはとりもなおさず、服従への用意があるということを意味する。

また、

(略)勇敢な人々は良心の呵責に苦しむことがないだけでなく、どんな些細な罪悪感に苛まれることもない。彼らは何も恐れない。なぜなら、彼らの内なる裁判官は、彼らのすることが正しいと太鼓判を押してくれるからだ。これとは反対に、臆病な犠牲者はまったく異なる立場にあることが特徴的だ。「私の行為が正しいかどうか自信がない。私は非難されても仕方ないし、誰でも私を罰することができる」。こうした罪悪感は、それがどんなに弱いものであろうとも、また、それがどれほどの深みに潜んでいても、罰を受けるために潜在意識の扉を開ける。もし私が罪悪感を覚えるのならば、略奪者やならず者に私を襲撃する権利があることを潜在的に同意していることになり、それがために私は恐怖する。

それでも人は罪悪感を持ってしまうのだが、ゼランドはそれを解消するには、許しを請うこと、自分の過ちを認めること、罪の許しを神に祈ること、懺悔することってんだが、これもまた長くなるのではぶく。ひとつだけ言うと、でもこの許しを請うということに関しては、それを利用して何度もテメエ勝手に人を服従させようとするヤカラの挑発にだけはのらないようにしなければならない。許しを請う権利は一度したらそれでおしまい、なのだ。

また話をややこしくしてるような気もするが、予言についてだった。

つまり、前回と同じことなのだが、大天変地異とかこの世の終わり的な予言は、決定したこととしてあるのではないということだ。人類がこの世に生きとし生けるものとの共存共栄を無視して、このまま傲慢な人間至上主義を続けたならば、そりゃエネルギーのバランスにおいても地球なり宇宙はなにかしらの大掃除をせざるを得なくなるのは当たり前だ。また、そうしたことに直接関わってる実感がないとしても人類の相当部分が潜在意識でそうしたことに関しての「罪悪感」を持っていたとしたら、ゼランド式に言えばそれに見合う「罰」をくらうこともあり得る。

だとすれば、そうした破壊的な未来を招来せずに済ます方法はおのずと決まってくる。早いとこ傲慢な人間至上主義的な流れを変えるか、これまでの行いの許しを一度だけ請い、罪悪感を感ぜずとも済むような方向、やはり傲慢な人間至上主義的なものではない方向への行動をとるしかない。『日月神示』の、早く改心せよ、はよ身魂を磨いてくれよ、ということだ。だって時間がないんだから。もうそこまで来てしまった。間に合わなかったら、もうしょうがない。大掃除されて残された人々で新しい世の中ができていく。それはおそらく決まっている。と思う。

天変地異は今までも起きたしこれからも起きるだろうから今に始まったことではないが、このまま行けば今回のはデカそうではある。でも重ね重ね言うけど、決定したことではないんじゃないか。だから、それぞれができることをやればいい。これまでのエネルギー調達方法がとんでもなく歪んできたのなら、フリーエネルギーを早いこと開発して普及させるとか、政治、経済、その他、すべて生きとし生けるものの生活基盤を見直すとか、そういったことにそれぞれがそれぞれの範囲内で意識的に関わっていく。

実際ここ数年というかとくに昨年からは急激にそうした人々が増えているのは間違いない。フリーエネルギーに限らず新しい物理学から言霊の真実まで必死に追求しているバカボン山田さんやchachaiさんたちグループや、そのうち独立国(国というのももはや古いか)まで築くんじゃないかといった勢いの玉ちゃんグループなど、ほかにも私が知らないだけで今の日本には相当数の人々が動いている。だから、なんとかなると私は・・・

過去、起きてしまったことはしょうがないし、また起きたからこそ変えられることもあるし、少なくともまだ起きていないこと、それも破滅的なことには焦点は合わせたくないよね。破壊的な予言はいろいろあるが、私の知る限り、その先の未来は明るいというものがほとんどだ。だったら基本的に未来は明るいと言えるわけで、問題はその過程だ。

誰だっけ、ソロモン王か、彼はどんなとんでもない状況でも泰然自若としていたが、その度に金だか銀の腕輪をチラ見していた。ある者がなんかの機会にそれを見たら、そこには、これも通り過ぎるさ、と書いてあったらしい。

結局、何が言いたいんだかわからなくなってきたが、とりあえず「予言」に関することはこれで切り上げます。またしてもだらだらと書きなぐってしまったが、読んでくれた人にはありがとう。どだい私程度の頭じゃゼランドの助けを借りてもテーマがデカすぎて手に負えんな。

でも、去年、あるスピリチュアリストにも言われたように、たしかにもろもろもう時間がないらしいんで、私も遠慮せずに?今後はガイキチ話を書きますわ。テーマというか内容ってことで言うと、誰でもイエスのようなことができるってことなんだけど、やっぱりヤバイかしら?

予言3

去る10日の日曜に韓国から帰ってきたには帰ってきたがヘロヘロで記事は書けず。私にはめずらしく二日酔いではなく、なんというか二日満腹で、頭がまわらない。なんで韓国人はあんなに食うんだ。

初日、向こうのおエライさんたちとの打ち合わせを終えると恒例の会食となるが、さんざん飲み食いしたあとにうまいチキン屋があるからとぞろぞろと移動。もう食いたくないと思いつつも礼を失すると間に入ってる人にも悪いから無理やり食ってビールで流し込む。たしかにうまいんだがさすがにtoo much。あげくに大量のチキンセットのオミヤゲを持たされ、また飲みに行くんだか食いに行くんだかになったとき思いがけず恵みの雨が。明日も早いからとかなんとかうまく切り抜けてホテルへ帰るももったいないんでまたチキンとビール。翌朝、まったく腹は減ってないが約束なので朝飯を食いながら打ち合わせ。昼の約束にはさすがに腹がいっぱいなので相手にわびながら告げると、そうですか、じゃあ軽くユッケでもと言ってくれたので、まあユッケにビールならちょうどいいというかうれしいくらいだと喜んでたら、いきなりユッケのほかにとんでもなくぶ厚いステーキ肉を2枚も注文された。おまけにここの水キムチスープは相当うまいということでそれも試すことになったが、韓国人の相手が辛い!辛い!とヒーヒー言うくらい辛く、そしてうまく、私は涙目になりながらもこれはなにかのカルマ落としでもしてるに違いないとひとり思いにふけっていた。

その後、ホンデのコミック専門店やソウル市外の出版村パジャシティなどに案内されたあと、実は近くにうまいうなぎ屋があると。ええっー!さっき食ったばかりじゃんと喉もとまで出かかるが…まあいいか、こんなことをえんえんと書いててもしょうがないやね。

その後、うなぎを食って、飲むと精力がつきすぎてションベンをするとバケツに穴があく(韓国の田舎は店の外に小便用に木の樽を置いておくらしい)といわれる桑の実のワインを1本飲み、夜は夜でまた食って飲み、すっかり思考能力を奪われてバカにった私はホテルに帰ってまた食って飲み、翌朝空港で朝飯を食い、おまけにヤケクソ気味に機内食まで食い、家に帰ってカミさんの手料理で3杯メシを食うという餓鬼道に陥ったのでした。ホント、しまいにゃ皿まで食ったろかと思ったね。

ゼランドです。前回の記事では、ともかく魂と理性が一致したことは現実化するという話だった。

だから悪い予感はよく当たるのだ。

起きてほしくないことは起きる可能性が高い。なぜなら、人は本当に欲していることはよくわかっていないが、欲していないことはよくわかっているからだ。人は欲していないことで魂と理性が一致することが多い。するとそれは現実化する。起こり得る事象のパターンや流れを無限に格納しているエネルギー場(ゼランドはそれをバリアントの空間と呼ぶ)は、魂と理性が一致さえすればそれがその人にとって良かろうが悪かろうが関係なくそのパターンなり流れを現象化させる。エネルギーに善も悪もない。

…私のヘタな説明をしていると「予言」について触れるところまでいくのにまた時間がかかりそうだから、さっそくゼランドの言葉を紹介する。

(略)人が梶棒を自分の手で握ると、その人の人生は状況に翻弄されるのをやめる。小舟を予め決められた「運命」から好きな方向へと向けることができるようになる。すべてはとても簡単なことだ。人生は河のようなものである。もしあなたが自分で漕ぎ進むと、方向を選ぶことが可能となり、もしただ流れに任せると、成り行き任せの小流を進まなければならない。あなたがカルマを求めれば、カルマを受け取る。あなたの人生が何らかの避けがたい状況や前世の過ちによるものだと思うと、あなたはそう思うことでそれにふさわしいバリアントを現実化させる。あなたの意志のままなのだ。なぜなら、あなたは神の子だからだ。では、もしあなたが支配者であることを望むなら、それもあなたの思いのままとなる。(略)

絶対的にすべてが含まれるという想像もつかないバリアントの空間の存在を信じるよりも、運命は何らかの最高の力によって定められていて、「計算」と予見が可能だと信じるほうが気が楽である。いずれにしても、人々にとっては未来が見通せないなかで暮らすのは居心地が悪いため、未来に関する何らかの暗示でよいからもらおうとして、占星術師、予言者、占い師などのところへ馳せ参じる。そして、そこでもまた根本的な選択という問題が立ちはだかる。自分の意図とは何なのか。自分を待ち受けているものを知ることか、それとも、欲することの実現か。

ここでゼランドの言うところの「意図」という言葉には特別の意味があるので解釈というかもうちょっと説明が必要なのだろうが、まあ今は予言に関して触れたいだけなので先に進む。

(略)未来を予言したり「見積もったり」する能力を出したりする能力を備えた誰かがいるのだろうか。そのような人間は間違いなく存在している。加えて、そうしたことは、バリアントの空間がまさしく存在するからこそ可能となってくるのだ。そうでなければ、千里眼の持ち主たちは、過去や未来の断片をどこから持ってくるとうのか。

ありとあらゆる占いやホロスコープに対する接し方は一種独特で、それは信じる気持ちと信じない気持ちが拮抗している状態にある。人は、一方では、そうしたものにすっかり頼り切る傾向にはないのだが、他方では、潜在意識のどこか深い部分で、「ひょっとして…だったらどうしよう?」という思いが居座る。占いに関する重要性は、「起こるかもしれないし、起こらないかもしれない」というように最小限である。これは、遊び半分まじめ半分に行われるある種のゲームである。その結果、魂と理性の密かな一致というものが起こる。そのような条件下では、束の間ではあるが明瞭な形(イメージ)が作り出され、それを世界の鏡は喜んで現実化させるのだ。本人自身が、自分の与(あずか)り知らないところで予言されたことを現実化させている。(略)

そして、「予言」に関してとりあえずの結論めいた部分を紹介する。

(略)予言者を必要とするのは、無意識に見る夢のような人生を選択した人々と、圧倒的多数を形成する側に常にいることを選択した人々だけだ。もしあなたが自分の人生を、コントロール可能な、意識して見る夢に変えるつもりならば、鏡職人たちからの手助けは、あなたにとってまったく無意味となる。
 占星術師、夢占い師、予言者を鏡職人と呼んでもよいだろう。なにしろ彼らは、たわいもない予言をしてくれるだけでなく、あなたが眺めなければならなくなるであろう自分の運命の代替品(鏡の一部)を与えてくれるのだ。予言が鏡の一部とならないわけがない。予言をあなたがまじめに受け入れるかどうかはどうでもよいことだ。あなたはそれを手に取ったのだから、それは潜在意識に居座り続け、その後のあなたの運命をプログラミングする。まさかあなたは、たとえお金に絡むことでないにせよ、未来のかけらを受け取ることが本当にできるなどと思っているのだろうか。運命の影響を受けずにそれを覗き込むことはできない。そんな商品の代価は常に同じである。その商品を手にしたあなたは、好むと好まざるとにかかわらず、それを自分の人生の一部分にせざるを得ない、ということだ。


とはいえ、予言の利用法もあるという。がしかし、どのような予言であるかにもよるようだ…

(略)もし自分のリアリティの支配者になりたいという願望がなければ、鏡職人たちからの手助けをうまく利用することはできる。これも選択であり、生存のための方法なのである。むしろ、運命の軌道に沿って安全に進む方法とも言える。この場合、予言は、起こり得る不快な出来事を未然に防いだり、成功への希望をいだかせてくれることのできるサインの役目を果たすことができる。こうしたことに関しては、鏡職人たちは役に立つことをしてくれる。けれども、鏡職人なら誰でも、というわけではない。彼らのなかで最も有害なのは、地球規模の出来事の予言者たちだ。大災害や「この世の終わり」が近いと予言することによって、多くの人々の思考を破壊的な方向へと向ける。言い換えると、集団的意識をプログラミングするのである。そうなると、ただでは済まなくなる。

まあ、個人的な解釈で大ざっぱに言えば、自分にとっていい予言は取り込み、悪い予言は取り込まずに無関心な距離を保ちながら、一応備えるって感じだ。だって、そんなたいそうな予言とまでいかなくても、日々おっかないニュースばかり流れてくるんだから、いちいち取り込んでたらカラダがもたない。前に記事にも書いたが、なんでおっかないニュースばかり流すんだろうか。そりゃそんなことも起きただろうが、それと同じか、あるいはそれ以上の心暖まる希望に満ちたとんでもなく楽しく平和・共存の可能性が溢れたニュースもあると思うんだけど。ない? だったらみんなで発信しましょうか。ニュースのネタが見つからなけりゃ自分たちで作っちゃいましょうか。

神がもしいるなら、なぜ神はこんなにも残酷で非道なことが世界で起きることを許すのだろうか、とか、それはそれできっと大きな意味があることなのだ、とかよりは、私はやはり神は真っ白な紙と鉛筆を用意しただけで、そこにどんな世界を描くのかは人間にまかせたのだと思うほうが納得できる。

さきのゼランドの言葉にもあるが、地球規模の大災害に関する予言というのはまさに今あちこちにあるわけで、これはゼランドふうに言えば、人類がそういった災害に遭遇するバリアントの近くにいるってことにもなる。それは人類の無意識の何%とかはわからないが、金持ちとか貧乏人、先進国や開発国にかかわらず、それなりの%部分がそういった災害を不可避なものとしてとらえていて、今の世界のシステムというかこのままの状態で行けばやがては大きなしっぺ返しを食うんじゃないかとどこかで思ってるということだ。だから人類の無意識のその部分が変わらなければ、あるいは%がこのまま増えていけば、そういったことに遭遇する確率もどんどん高まるのかもしれない。

でも、その無意識はある種、罪悪感とも言えるから、罪悪感がなくなればまた状況も変わる。罪悪感は罰があたることで解消しようとする傾向があるから、人類は無意識に大いなる罰を受けようとしているのかもしれないが、罪悪感は罰を受けて解消するというほかに心を入れ替えて償いの行動に出ることによっても解消できる。だってこの罰はダメージがデカ過ぎるよ。人間の外に神なるものがいて、人間にその罪を気がつかせるために天変地異を起こすと考えてもいいけど、ゼランドに限らず世のスピリチュアリストたちが言うように我々の外に神がいるのではなく、我々こそが神の一部いや神ならば、自分たちでしでかした悪事も自分たちなりに始末をつけられるんじゃないだろうか。しでかしちゃったものはもうしょうがないが、かといって座して罰を待ってるだけじゃ、先のゼランドの言葉で言えば、成り行き任せの小流を進んでるだけになる。それじゃ『日月神示』の大難も小難にできない。梶棒を持って、より良い方向へ小舟を進めなければならない。小舟じゃないな、人類の無意識のことだから大船だ。でも小舟からはじめるしかない。

ちょっと長くなったので。

とりあえず予言に関する一ロシア人の一考察だ。そして私もほぼ同意してます。ほぼというのは、一日本人としての私の考えもほかにちびっとはあるからで、また今度世に問うてみたいと思います。

自分で書いて笑っちゃったが、世に問うってほどのもんじゃないわな。

予言2

私にしては早い更新だ。今後は、見知ったアフォリズムめいたものでもいいから毎日でも発信したほうがいいかな。

昨日、いや一昨日か、レイ・ブラッドベリの訃報が入った。ここ数年はときどきだがいつかはそうなるだろうとちょっと恐れてもいた。恐れていたというのは、自分の怠慢ゆえだ。私は過去2回、同じような後悔を持ったことがある。大山倍達のときと淀川長治のときだ。両者ともどうにも気なっていた人で、一度は会ってみたい、あるいは文書でも何でも交信してみたいと思っていた。行動に出ればよかったのは言うまでもないが、なぜか、怠けていた。ほかのこと、もっとつまらないことや仕事上のこと、プライベートでのこと、人生上のこと(ちょっと大げさかも)など、ときには人に非難されるくらいアグレッシヴになるのに、なんでだろうと自分でも思ったが、やっぱりただの怠慢なのだろう。そしてブラッドベリだ。

私はブラッドベリがかなり好きで、作品はほぼ持っているし読んでいる。短篇集『10月はたそがれの国』や『太陽の黄金(きん)の林檎』などの短篇集が好きだった。『火星年代記』や『華氏451度』みたいのもあるけど、やはりブラッドベリは短編だ。小説というよりは詩だ。フィクションというよりはファンタジーだ。そういえば大学の先輩がSFはもはやSpace FictionじゃなくSatisfactory Fantasyだって言ってたっけ。先の『太陽の~』の表題作や『10月は~』収録の「下水道」なんか、もう何て言っていいかわからない。繰り返し読むしかない。好きな映画と同じだな。でも、ブラッドベリは火星のことをよく書いたが、今になってハッとさせられるものもある。最先端であるところの量子物理学に基づいたある種の世界観のようなものをすでに短編として詩的に昇華、表現していたんだなみたいな。

ともかく、ぐずぐずしてて大山倍達や淀川さんにコンタクトをとらず、ふたりとも故人になってしまった後悔から、ブラッドベリには手紙を出そうと思っていた。意外と返事をくれるということも調べていたし、住所も知っていた。早くしないと死んじゃうとも思ってたが、あのじいさんなら100歳は生きるだろうとも思っていたのだが・・・。ただのミーハーで真剣さが足りなかったからだと言われれば反論できない。真剣さ?ではないな、なんだろう。大山倍達のときも淀川さんのときも、しまった!と思った。そして今回もだ。カミさんみたいにどんなに好きでもファンでも会わなくてもいい、むしろ会わないほうがいいという人もいるが、私はやはり会ってみたいし、なにかしら触れてみたい。っていうとフェチっぽいな。手紙でも電話でもいいんだけど。私は好きな作家の書いた原稿とかわりと好きだ。バカ高いのは無理だが、署名本だと手に入る。

まあ、また後悔しないようにコリン・ウィルソンには手紙を出してみるか。

ブラッドベリのことはほんの一部、以前記事で書いたが(あの言葉は好きなんです)、あれはゼランドの予言に関する記事の流れで出てきたものだが、なんとなくまた予言についてゼランドが言ってることに触れたくなった。と言っても、これから韓国に行かなきゃなんなくてどこまで書けるかわからない。尻切れトンボになったら次回続きを書きます。

まず、「運命」につてはこんなことを言っている。

運命についての問題とは、予め定められた運命を選ぶか、それとも自由な運命を選ぶか、という選択の問題なのである。要するに、選んだものを受け取るとあなたが確信するだけのことである。

このへんはトランサーファーの基本だ。嫌な状況に遭遇し、それが自分のカルマ、あるいはなにかしらの罰だととらえれば、そうなる。そういった想念、思考は無限の可能性が格納されているゼロポイントエネルギー(ゼランドはそれをバリアントの空間と呼ぶ)にあるそういった現実の流れを本当に現実として物質化、現象化させる。世界は基本的に自分の意のままなのだ。ただ意のままにコントロールするにはコツというか法則がある。それは理性と魂を一致させることだ。理性と魂が一致しないと現実化は起こらない。理性が納得し信念を持ってても魂が嫌がってればダメだ。魂が望んでても理性が理屈で否定すればばダメだ。

例えば、今、魂が酒を飲みたいと思ってても(仮にの話です。魂が具体的なものとして酒を求めるはずがない。魂は快、不快の快を求めるだけだ)理性が今は禁酒中だからとか勤務中だからと規制すれば現実には酒を飲むような流れにはならない。これはある種、当たり前か。でも、理性が酒が飲みたいと強烈に思ってて、例えば、仕事のし過ぎでストレスその他、体をリラックスさせる必要があるとかなんとかどうにでも理屈をつけてそう思ってて、魂のほうは、酒はともかく、酒を飲んで超リラックスしているという自分の状況を望んでいるとすると、ここで理性と魂の一致が起きて、ゼロポイントエネルギーの場から酒を飲むような現実のラインを本当に現象化させる。

トランサーフィンのすごいところは、その現実の流れ、方法は考えなくていいことだ。とにかく酒を飲んでリラックスするということで理性と魂が一致さえすれば、あとは勝手にゼロポイントエネルギーフィールドがお膳立てしてくれる。エネルギーは無駄なことはいっさいしない。一番効率のよい、エネルギーのかからない方法で現実化させる。むしろ理性があーだこーだと自分の狭っ苦しい理屈の中で流れを望むと余計な無駄なエネルギーがかかり、せっかくゼロポイントフィールドが自分のために効率よく現実をお膳立てしてくれようとしてるのにぶち壊しになる。だから、まかせればいい。そうすれば、理性が想像もしていなかったような現実、たとえば、勤務中なら社長がいきなりやってきて、そう言えば今日は会社の創立20周年だったからみんなでビールでも飲みに行こうと言い出すとか、禁酒中だったら、病院から電話がかかってきて、スミマセン、この間の検査の結果はこちらのミスで他人のものでした、あなたは禁酒する必要はありません、でもお酒はひかえてネ、と言われるとか、そういうことが本当に起きる。

これはバカバカしいくらい極端な話だが、まあそういうことだ。

ああ、時間がない。予言までとうていたどりつけない。いったん切り上げます。10日に帰ってくるから、10日の夜にでもまた書きます。
<家!--メインコンテンツここまで-->
プロフィール

∞酒林∞

Author:∞酒林∞
世の中の皆様こんにちは。
私はただの夢見る酔っぱらい。
夜な夜な昼間にそば屋うなぎ屋ラーメン屋、
飲んで歌って吠えてます。
いつまで続くか酔っぱらい。
帰ってくるのか酔っぱらい。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ブロとも一覧

過去ログ倉庫:黄金の金玉を知らないか?

山田貢司のどこに行くのか?バカボン一家
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。