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トランサーファー

年末だということもあるが、ほっとくとすぐ日にちが経つ。始めたばかりのこのブログも、これまでの傾向からなんとなく週に3回くらいは更新できるなと思っていたが甘かった。私程度の忙しさでも、しかもこの程度のブログでも短期に更新するのが難しいのだから、今まで何気にのぞいていた人気ブロガーさんたちの労力にはあらためて頭が下がる。ある種の使命感とか、あるいは書かずにはおれないアーティスティックな内的衝動とか、おそらくは愛情!とかがなければ続けられるものではないと想像する。すごいなあ。私はただの怠け者のうえに、この時期ほとんど二日酔いだから頭がバカで文章が書けないだけだ。情けないなあ。

もうすぐ2012年だ。天変地異がくる、人類がふた手に分かれていく、選別される、地球がアセンションする、などなど、いろいろ取りざたされてきた2012年がとうとうやってくる。Coming Soon! 

とはいえ、2012年を特別な感慨を持って迎えるのは全人類でみればやはり一部だろう。
かくいう私も、あれはいつだったか、2008年ころだったかな、パワースポット系の本の企画の打ち合せをさる神道研究家としているときに、しきりにアセンションという言葉が出てくるので、アセンションってなんすか? と聞いたのだった。まあ、不勉強だったとはいえ、一応小学生のころから超常現象に興味を持ってきた私のような人間でさえアセンションという言葉は聞いたことがなかったのだから、世のまっとうな人たちのほとんどは今でも知らないに違いない。ウソだと思うなら、電車で隣り合わせた人とか、PTAの保護者会の後ろの席の人とか、スーパーのレジに並んでいる前の奥さんとかに聞いてみるといい。知らないから。

アセンションはともかく、世の中いろいろガタがきてるなあくらいは皆感じている。新聞、雑誌、テレビを見てればそれくらいわかるし、気の効いた人ならその新聞、雑誌、テレビ自体がとっくにヤバイと見抜いてる。2012年以降、これからどうなっちゃうのか? と本気で心配してる人もフツーにたくさんいる中、やはり人類はというか世界はかなり高い確率でヤバイ方向に向かっているらしいとのスピリチュアル系の情報がある。そこで、前にも記事で触れたトランサーフィンシリーズの中から、大惨事などに関する部分をちょっと紹介してみたい。 

(略)最初に、人は、ある事実に遭遇する。それは、その人を不安にさせるかもしれないし、ひょっとしたら不安にさせないかもしれない。このニュースはネガティブな出来事に関するもので、どこかほかの国のこととしよう。これは破壊的振り子からの最初のゆさぶりである
(∞酒林∞注:「振り子」とは、著者ヴァジム・ゼランドが使用する特別な用語。人間が仕えている様々なグループや組織、たとえば家族、クラブ、学校、企業、政党、国家などは、人々が同じ方向で思考したり行動した結果、発生して成長したもの。それらの「構造」は新たなメンバーが加入することで拡大強化され、定められた決まりに従うようにメンバーに強制し、ついには社会の大きな層を服従させるようになる。これをエネルギーレベルでいうと、人々の集団の思考がひとつの方向を向くと「構造」が出現するということだ。つまり思考エネルギーのパラメーターが同一になる。このとき、エネルギーの海の真ん中で、独立したエネルギーの情報体、すなわちエネルギーの「振り子」(ペンジュラム)が生まれる。そしてそれ自身がひとつの生命のように独立し、その中の人々を自分の決まりに服従させる。なぜ「振り子」と呼ぶかというと、その「構造」の「信奉者」たちが自分たちのエネルギーを与えたぶんだけ「振り子」が大きく揺れるからだ。「振り子」はエネルギーを定期的にもらわないと動くことができないから、できるだけ多く長く「信奉者」たちからエネルギーをもらおうとする。「信奉者」は自分の意思で行動しているのではなく、「振り子」が生き延びるために自分の決まりを「信奉者」に押しつけた結果、行動させられている。「信奉者」はそれに気づかない。「信奉者」がいなくなれば「振り子」は消滅する)

もしこのニュースが、視聴者の誰かを動揺させたならば、その人は働きかけに対して反応し始める。自分の姿勢を表明し、気にかけるようになる。つまり、最初のゆさぶりと同じ周波数によるエネルギーを放射することで応答するのだ。その人は、ほかの数千人と同じく、自分の関心を表明して参加するという形で、振り子に反応する。放射したエネルギーは振り子と共鳴し、振り子のエネルギーは増大する。マスメディアは引き続き自分のキャンペーンを行なう。人は関心をもって出来事が展開する様子を追いかけ、振り子はまたエネルギーを摂取する。このようにして振り子は自分の網に信奉者たちをおびき寄せ、彼らからエネルギーを吸い上げる。関心を示した人々は、自分の中にネガティブなエネルギーを取り入れ、当面は傍観者としてゲームに没頭する。

一瞥した限りでは、何ら特別なことは起こらず、よくある出来事のように思える。人が破壊的振り子にエネルギーの一部を与えることについては、どう考えたらよいだろう? これはその人の健康にはほとんど影響を与えない。しかしながら、本当は、その人はネガティブな出来事の周波数でエネルギーを放射しながら似たような出来事がますますその人に近い所で発生するような人生ラインへと移動している。人は発端に関与することで、気がつくとスパイラルの影響域にいる。スパイラルは猛スピードで回転し始め、あたかも漏斗のように、その人を自分の中に引きずり込む。人と振り子との相互作用はどんどん緊密になり、その人は前記のような出来事を、自分の人生にとっては避けて通れないこととして受け入れるようになる。その人の注意力は選択的に働き、様々な国々における新たな事実がいたるところでその耳に入ってくる。こうしたニュースを知人や友人たちと話題にし、彼らから関心や同情という形での反響を受け取る。振り子のエネルギーは増大し、その人は自分の放射周波数によって出来事が本当に発生するラインへとますます接近し、すでに傍観者ではなく直接的な参加者になりつつある。

(中略)ネガティブな情報に関心を寄せる人は、いつもそうしたものを過剰に受け取ることになる。最初は傍観者という当たり障りのない立場で、その人は観客席にでも座って、サッカーの試合を観戦しているような気分だろう。だが、次第に試合に引き込まれていき、熱心なファンになっていく。その後、フィールドに降り立ち、まだボールはパスされないまま、駆け出す。少しずつ知らず知らずのうちに、その人はますますのめり込んでいき、ついにはボールを受け取る。そうして傍観者がプレイヤー、すなわち惨事の犠牲者へと変わっていく。必ずそうなってしまう。なぜなら、惨事はその人の人生の一部となっており、その人自身が自分の層に惨事を取り入れ、いつの間にか犠牲者の運命を受け入れ、不運なバリアント
(酒林注:「バリアント」もゼランドの用語。簡単にいうと、あらゆる現象の可能性が詰まった情報フィールドというかデータバンクのような場所にある、起こり得る現象の様々な要因、構成要素のこと)を現実化してしまったからだ。もちろんその人は、犠牲者の役割を引き受けたくはなかっただろう。しかし、それは仕方のないことだ。もし人が振り子のゲームを受け入れたならば、役割を割り振るのは振り子のほうなのだから。その他大勢の犠牲者にとってこの災難は破壊的な悪状況の重なり合った結果であるのに対し、その人にとっては、これは法則に則った論理的帰結ということになる。その主人公にとって、しかるべき時刻にしかるべき場所にいあわせる確率は、すでに平均を上回っているのだ。

もしあなたが破壊的振り子からのゆさぶりを無視したならば、惨事に遭遇することは決してないだろう。その確率はゼロに近いともいえる。では、災害や天変地異のときに、なぜ数千もの人々が命を落とすのか? 犠牲者たちは皆で一斉に災害のことを考えていたとでもいうのか? こうした反論もあるだろう。だが、あなたはこの世界にひとりでいるのではない。破壊的振り子の下で積極的に活動し、こうした振り子のスペクトラムでエネルギーを放射している多くの人々に囲まれている。誰もそのような放射から理想的に遮断されることはできない。放射フィールドはあなたをつかみ取り、あなた自身もそのことを認識しないまま、同じ周波数で放射を始める。

(中略)漏斗の中心からいかに遠くいられるかが肝心だ。これは、惨事や災害に関する情報を自分の中に取り入れず、それらに関心を持たず、思い悩まず、話題にせず、総じて聞き流しておくことを意味する。ここで注意することは、情報から遠ざかりはしないものの、それを自分の中へは取り込まないという点だ。(中略)振り子との遭遇を避けようとするのは、振り子との遭遇を求めるのと同じことである。あなたが何かに抵抗し、それを望まず、または憎悪をあらわにしたりすると、そうすることによって、逃れたいことがらの周波数で活発にエネルギーを放射してしまうことになる。自分の中に取り込まないということは、ネガティブな情報を無視する、反応しない、ということであり、自分の注意を悪気のないテレビや番組や本へと切り替えることなのだ…


このあと、飛行機に乗る前にただならぬ不安を覚えたならば乗らないほうがいいとか、どうしていいかわからないときは、明け方の星々のさざめき(またゼランド特有の表現。これについても解説があるがまたいつか)、に耳を傾けよといった内容が続く。

トランサーフィンシリーズは、超大雑把にその内容をまとめれば、人は魂と理性が一致したものを受け取る、ということだ。その人にとっていいことだろうが悪いことだろうが、魂が望み感じたものが理性と一致すれば、人はそれを受け取る。頭(理性)で、天変地異なんかくるわけがない、資本主義が崩壊するわけがない、会社がつぶれるわけがない、あいつが離婚をしたいなんていうわけがない、などと思っていても、自分でも気がつかない心の奥で実はそれらの不安を常に抱えていれば、徐々にそれらを引き寄せ、あるとき何かの機に理性までがそれを認めたとき、ついにはそれらを受け取ることになるのだ。とはいえ、個々の人間の心の中は一筋縄じゃいかないから、なんであの女のつき合う男はいつもあんな暴力男ばっかりなんだろうっていっても、その女が魂レベルで恐れた結果引き寄せているのか、あるいは魂レベルで望んでいる・必要だから、なのかはハタからはわからない。おそらく本人にもわからない(魂レベルってどういう意味だ?って思った人は、できれば本を読むことをオススメします。私のヘタな説明はかえって誤解を生むかもしれないし、実際、トランサーフィンシリーズは要約することが難しい)。

また、逆にいえば現実とは楽勝だともいえるのではないか。自分が望んでいることが魂レベルから望んでいることであり、理性もそれを承知していれば、望んでいることはすべてかなうということになる。ゼランドが伝えたいことはそういうことではないか。ゼランドはいう。だから、意識的にならないといけない。自分の心の状態を定期的に絶えずチェックしなくてはいけない。それだけで、危険なこと、不快なことを回避できるだけではなく、ちょっとした習慣を加えるだけですべてはよりよい方向に順調に流れていく。

また話が飛んでしまう。要するに、いわゆる2012年以降に関する情報の取り扱いには注意が必要なようだということです。とはいえ、ゼランドがいうようなアホなテレビや本にウツツを抜かしていればいいというものでもないとは思うが。あ、アホとはいってなかったか。とにかく、ポジティブでもネガティブでも、情報を自分の中に取り込まず、客観視しながら、備えあれば憂いなし的に処していくしかないんじゃないか、ということ。なんかたいした話じゃなくなってきたな。

まあ、個人的にはトランサーファーを気取りつつ歩いていきたいと思う。2012年以降のことでいえば、ネガティブなものばかりでもなく、スピリチュアル的には大きな枠ではよき方向に向かっていく可能性もありとの情報もあるし、バカボン山田さんとはそうしていきましょう的な話もしているし、実際そうするしかないでしょ。でも、山田さんとこは小麦ちゃん含め、みんながエスパー一家だから説得力もあるが、私んとこは全員アジャパー一家だから、どうしようもない。私を筆頭に。トホホ。

では今年最後に、私の好きなレイ・ブラッドベリの言葉を紹介して新年を迎えることにします。

「生きているうちは働くのが薬である。人生を意のままに操るためには、明るい色の目でしっかり上を見ることだ。なにがしかの真実を織りまぜつつ、暗い目をした連中とも伍していく。生きているということには、すばらしくも美しい事実があると思いおこそうではないか。それでこそ、家族や友人に差し迫る恐怖にも、新聞やテレビで聞きおよぶ恐怖にも、どうにか渡りあっていけるだろう」
『ブラッドベリはどこへゆく 未来の回廊』より
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緑の悪魔

テレ朝の『ミュージックステーション』を久しぶりに見る。やはり女、子どもが明るく、屈託がなく、元気がいいということはいいことだと思った。当たり前か。女、子どもが暗く、鬱屈していて、元気がないなんて国はロクなもんじゃないだろう。歌と踊りというものは人を元気にする。理性じゃないところに響くからだ。
祭りが原点だね。日本人は祭り好きだし、歌もカラオケなんてものを発明したくらいだから絶対好きだ。

踊りといえば、いきなりアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を思い出した。
幼年期の終わりとは、地球の幼年期の終わりという意味だ。内容は、ある日空に巨大なUFO軍団が現れて、戦争ばかりしていた地球を管理し始める。不正、独裁、その他あらゆる地球上の悪を駆逐する。UFO軍団の連中はどこかの星の知的生命体で、超高度な科学技術を持っている。上主と呼ばれる者がトップにいるが、その正体は誰も見たことがない。そもそもこのUFO軍団の目的もよくわからない。地球を管理してどうしようというのか。最後にこの上主の正体が垣間見られるのだが、ネタバレになるとまずいので伏せておく。ともかく、地球の最後の時期、新しく生まれてきた人間たちは、皆一心不乱に踊り出すのだ。ジャングルの中でもどこでも、体が傷つこうがどうしようがおかまいなく踊り続ける。その描写はちょっと怖かった記憶がある。

三島由紀夫はこの小説をたしか一番恐れていたはずだ。本当に恐ろしい、というようなことをどこかで書いている。私もこの小説はあまり好きではなかった。なんともやりきれない、というか、後味があまりよくなかったと思う。でも傑作であることには違いない。クラークには『2001年宇宙の旅』もそうだが、どこか予言者めいたところがある。クラークに限らず、H・G・ウェルズでもコナン・ドイルでも、イギリスの(SF)作家はどこか神秘的だ。ドイルは英国心霊現象研究協会に関わっていたはずだ。クラークも心霊現象を否定していないし、彼らのような作家はどこか無意識でアカシックから情報を得て書いているんじゃないかと思いたくなるようなところがある。たしか、夜空はなぜ暗いのか、といった歴史的な難問も、アメリカのミステリー作家エドガー・アラン・ポーがすでに解いていたはずだ。宇宙には何千億も星があるのだから、本当は夜空は明るくなければいけない。いろんな説が登場したが、ポーがどこかのエッセイで、夜空に暗い部分があるのは、その先にある星が遠すぎてまだ地球にその光が届いていないからだ、と書いていて、それが実際に20世紀になって証明された。やはり、既成概念にとらわれない人間の自由な発想、想像力の中にだけ多くの可能性が隠されているということか。

話がすぐとっちらかるが、先の『幼年期の終わり』は一種の終末論だが、どうもある種の真実を含んでいるようで怖い、ということがいいたかったのである。地球の成長、あるいは今取りざたされているアセンションにまで思いが及ぶような内容を、なぜ50年代にクラークが書けたのか。まあ、天才だからだということにしておこうか。

三島が怖がったとも書いたが、三島由紀夫は『美しい星』というSFもどきの小説を書いていたとき、自らリュックを背負って埼玉の山にUFOを見に出かけるような人だから、なにか感性的に共鳴するものがあったのだろう。三島で思い出したが(こればっかだ)、誰だったか、三島の晩年、外国人の知人が三島邸を訪れたのだが、その外国人の知人が三島になにを話しかけても三島は上の空で、日本は終わりだ…日本は首もとを緑色の蛇に噛みつかれていて、もうどうすることもできない…というようなことをぶつぶつとつぶやくだけだった。三島の自決後、その外国人がどこかの雑誌でそう回顧しているのを読んだことがある。緑色の蛇とはいったいなにか? 私はその後その話は忘れていたが、6、7年前、『文芸春秋』でたしか文春の元編集長だったかの人がその話を取り上げていて、緑色の蛇は米ドルだ、といっていた。たしかに米ドル札は緑色だ。その人は、日本は戦争でアメリカに負け、その後さらに経済的にもアメリカに支配されていて、三島はそれを知って絶望したのだ、というようなことをいいたかったのだろう。

そのとき、私は何気に三島のいう緑色の蛇とは、フリーメーソン、イルミナティと関係があるように感じた。万物を見通す目の下の十字架に巻き付いているのは緑色の蛇だし、フリーメーソンと緑色と蛇の連関は探せばいくらでも出てくる。皇室がフリーメーソンと関係していることはよく話題になる。三島はなにを知って絶望したのだろうか。遺作となる4部作『豊饒の海』の「天人五衰」にもそれらしき描写が出てくる。世界には超金持ちがいて我々を牛耳っている。彼らは美しくて純真なものが嫌いで、そうしたものを破壊してまわる。そしてついに日本にまで手を伸ばしてきた。我々は彼らには勝てない。なぜなら、美しくて純真な者は少数で、世の中の大半は彼ら金持ちのほうにつくからだ。だから、我々は密かに自尊心を保ちつつ、彼らに屈服しているふりをする必要がある。そして彼らの弱点を虎視眈々と探し、いつの日か立ち上がるのだ、といった内容だったと思う。まるで、『日月神示』みたいではないか。

緑といえば、最近中沢新一が立ち上げた『GREEN ACTIVE』もそうだが、本来はエコ的なクリーンなイメージがあるはずだが、反面、江戸川乱歩の『緑衣の鬼』のように、ちょっと怖いものとも結びついている。その本の中にも、緑色はキ印の色だ、といった表現があったと思う。キじるしってなんだ?と思って、当時子どもだった私は母親に聞いた覚えがある。すると母親は、キチガイのことだよ、といった。今じゃ、ピー言葉だろうが、当時は普通に使っていた。緑といえば、小島信夫のあれはなんだったか、『寓話』だったかな、緑色のことがちょっと出てきて、モンドリアンだったかモディリアニだったか(モしかあってない!)、ともかくどちらかの画家が晩年に緑色を徹底的に嫌ったというエピソードが紹介されていた。緑色が嫌いなので、座るときには窓から緑の木が見えないように座ったというからすごい。もちろん絵にも緑は絶対使わない。そして小島信夫はその話を聞いて、本当にびっくりしたというのだ。それだけ。なぜびっくりしたのか書いていない。

私は、小島信夫がなぜその話を知って心底びっくりしたのかが気になってしょうがないのだが、最近故人になられたから直接本人に聞くわけにもいかない。誰か知りませんかね? 

フリーメーソン、イルミナティの儀式に関しては、『地球を支配するブルーブラッド 爬虫類人DNAの系譜』に詳しく書いてある。もとその儀式に参加していた著者によるある種の告発本なので、そのリアリティは迫力がある、というか心臓が弱い人はあまり読まないほうがいいかもしれない。真実であるかどうかはともかく、人間のタイプによっては知らなくてもいいということがあるのかもしれないし。この本は、人類誕生の話もそうだが、本当に驚くようなことばかりで、おそらく世の中的にはトンデモ本として片づけられているのではないだろうか。そういえば爬虫類人も緑色らしい。

病気はなくなる?

のどの痛みがだいぶ和らいできた。熱が出なくてよかった。風邪かな、と思ったら風門というツボを刺激したり温めたりするといいと聞いたので、速攻で使い捨てカイロを貼ったからかろうじて発熱は避けられたのだろうと勝手に思っている。風門とは文字通り風邪の入るツボらしい。首の後ろにあって、下を向き、首の後ろの骨で一番出っ張ってるところから下に2つめと3つめの骨の間から左右に指幅2本ぶんのところ、とちょっとややこしいが、首の後ろあたりに熱めのシャワーをかけるだけでも効果はあるらしい。風邪を引いちゃったら遅いので、風邪かな?と思った時点で実行するといいとか。

この風邪かな?という感覚が大事なのだろう。自分の体調の変化に気づけるかどうかに鍵がありそうだ。
といって、神経質になるのは最悪だ。へたすれば、ちょっと痩せてきたとか、ここのところ背中が痛いなあ、くらいで、ガンじゃないか? となる。本当は、ただの運動不足で筋肉が落ちただけとか、姿勢が悪かっただけだったりする。勘違いで心配しすぎて本当にガンになるとは冗談っぽくよくいわれるが、私は世の中のガンはほとんどがこの類いだと本気に疑ってます。そして病院にいって、やがては消えるはずの小さなガンを見つけられてガク然とし、あげくの果てに、医者と患者でガンを完璧に顕在化させ、ガンと闘っていきましょうとなり、自分の免疫力を徹底的に弱めていく治療に入るのだ。手術、抗がん剤、放射線。抗がん剤の成分は毒ガスである。私も父親や義父などガンで亡くなった身内親戚がいるし、へんに顰蹙をかったり、誤解されたくはないが、どうも今のガン治療は気に食わない。というか、ガンってそんなに大した病気なのか? 

ガンというものはあるだろう。でもそれは血液の汚れからくるもので、食生活を変えるだけで治るのではないか。もとにもどるのではないか。もともと人間というか生物の体には自己治癒能力が備わっていて、オートポイエーシスによって自己を創造、保存していくことができる。切り傷だってほっとけばふさがる。もちろんダメージのレベルはあるから、外科的な施術が必要なものはある。でも、ガンは毎日できたり治ったりしているらしいし、長年かけておかしくなったガンは、長い時間かけて食生活その他生活環境を変えれば消えるのではないか。そういったことを研究、発表している本はいくらでもある。ガンにかかり余命なん年とかといわれた著者が、代替医療も含めた自身の体験記を綴った『「ガン呪縛」を解く』もそうだし、『がんの特効薬は発見済みだ!』にいたっては、ガンを治すクスリがあるというのだから驚く。私も本を読んでついそのクスリを買ってしまった。カミさんがガンにでもなったらあげようと思って。でも、彼女は病院にいくといっています。20世紀最大の予言者とも呼ばれるエドガー・ケーシーは、1日アーモンドを何粒か食べてればガンというかいわゆる腫瘍とは縁がないだろうと断言してる。

先の『「ガンの呪縛」を解く』では、「千島学説」で有名な千島喜久男博士の話も登場する。千島博士によると血液は小腸で作られるとのことだ。ガンはいわゆるガン細胞ができるのではなく、赤血球が腐敗しておかしくなってできると主張する。博士の理論によると細胞は赤血球から作られるのだからそれもよくわかる。医学の常識では、血液は骨髄で作られることになっているから、博士の理論はもちろん邪道だ。認められていない。しかも博士によれば、細胞分裂はない。これはどうやら西欧の学者(名前は忘れた)が細胞分裂ということを学会で発表して、それがそのまま通説になっているだけらしい。我々が生物の教科書でよく知っているあのひとつの丸い細胞がやがてふたつに分かれ、4つに分かれ、というのはウソというか、仮説に基づいた想像なのだ。博士はその西欧の学者が日本の学会にきたとき質問をする。あなたはその細胞分裂とやらをその目で確認したのか?と。学者の答えはノーだった。そのへんのやりとりは本を読んでてちょっと興奮した覚えがあります。

要するに西欧の近代科学によるあらゆる学説はとりあえず仮説だということだ。その時点ではどうやらその説が一番論理的に整合性があるらしい、ということにすぎない。だが困るのはそれが権威を持ってしまうことですね。相対性理論、ビッグバン理論、みんなそうでしょう。ニュートンなどの古典物理学もそうだ。もっと前であれば、世界はカメとかゾウとかそういった動物が支えてると信じられていたわけで、私としてはそっちのほうが仮説としては面白い。

話が大げさになってきたが、つまり落語なんかを聴いていると、どこか具合が悪くなると上州のオジキんちとかどっかにいって療養して、しばらくすると按配がよくなって…なんて話がよく出てくる。案外、昔の人は、体がおかしくなるとそれまでの生活習慣を変えるためにどこか地方にいって、水も空気も食べ物も人も違うところでしばらく生活してみて様子をみる、ということをほとんど無意識に普通にやっていたのかなと思ったわけです。それで体をもとに戻す。

高い金を払ってあちこち検査して、知らなくてもいいようなどうでもいいことを見つけて、やれ腫瘍だ炎症だ脂肪肝だ糖尿だ、このままだといつガンになってもおかしくない、心筋梗塞で倒れるかもしれない、そりゃ大変だ、クスリだ入院だと、これじゃ精神的にやられちゃうだろう。それより、自分の体の信号を見逃さないように感覚を養って、酒を控えたり(すみません、できません)、偏食をやめたり、運動したり、といったことを自分で行なえるようにすればいいのではないか。それができりゃ苦労しないわと反感も買いそうだが、金払って医者いって嫌なこといわれたりされたりするよりいいと思うけどなあ。それに、昔ならオカルトのひと言で片づけられてしまったような現象が、今では科学的にも物理学的にも検証技術がどんどん進んで、もはや常識とされてるようなことがいくらでもある。個人的には、これから病気というものはどんどんなくなっていくと思っている。少なくとも、普通の人が普通に治せるようになるのではないか。医者というか専門家は、その方法や技術をアドバイスするような立場になっていくのだと思う。



龍雲

この前、編集部の年賀状を女性スタッフが持って来てチェックしてくれというから、私はエラソーにどれどれと見て、来年は辰年だったかあ? とほざいたのだった。え???とビビる女の子に、違うだろーと。もちろん、辰年でいいのだ。私は、なぜかそのとき、ねぇ、うし、たつ、みぃ、と勘定していたのだ。とら、うぅ、を抜かしてた。赤っ恥をかいた。

龍の字をじっと見つめて落ち込んでいたら、ふと龍を見たことを思い出した。最初は去年2月、以前書いた天野雅道氏に会うために熊本へ行った帰りの飛行機の中でのこと。熊本に一泊して、夜、編プロの若いシと天野さんとでしたたかに飲んだ。翌朝、若いシはお義父さんが亡くなったというので先に帰った。私は残りの取材を終え、二日酔いの朦朧とした頭で飛行機に乗った。機内は比較的空いていて、私は離陸した飛行機の窓からぼおっと外を見ていた。頭カラッポ。というか二日酔いでなにも考えられない。眼下は白い雲のじゅうたんが一面に敷き詰められていて、世界が止まったかのようになにも動かない。空と雲。すると目の端でなにかが動いた気がした。なんだあ、と目を凝らすと、斜め後ろの向こうのほうに、細くて長い白い雲がへろへろと飛んでいる。飛行機の下は綿のじゅうたんのような雲が一面に広がっていて、びくとも動かない。その上をその雲だけがぴろぴろ飛んでいくのだ。へんな雲があったもんだなあ、と思ったが、そのうち、あ、龍だ、と気づいた。ハッと気を取り直して、身をよじってしっかり見ようとしたが、もう視界から消えようとしている。私は、後ろの席の人も見ているはずだと思い話しかけようとしたが、その人は何事もなかったかのようにしてるので、やめた。

私は腕組みをして、そのときは、二日酔いで幻覚でも見たのだろう、ということにしたが、やっぱりあれは白龍だったのだと思う。あの方向だと、九州か沖縄か、どこか南のほうに向かっていたのだろう。

そして今年、横浜パシフィコで船井幸雄氏の大きなイベントがあって、会場に着いたとき、横浜パシフィコの真上の空にドギモを抜かれるような大きな龍がかかっていた。もちろん雲なのだろうが、その鱗のある胴体からして龍としか見えない。あまりに大きくて端が見えないから、胴体を辿っていくと、横浜パシフィコは海辺に建っているのだが、その海の向こうの水平線から胴体が出ている。じゃ、頭はと逆に辿ると、遥か向こうのほうまで伸びていてわからなかった。

そのイベントは2日間催されたので、一泊して翌日また出かけてみると、今度は建物の真上に、放射状に広がる奇妙な雲があるので、よく見ると角や髭のある巨大な龍の頭だった。前日もそうだが、携帯のカメラで撮影しようとしたが、SDカードがなんたらでどうしても撮れない。でも、龍の頭は皆気にしてないようだったが、前日の胴体のほうは、会場のまわりの人たちも空を見上げて何事かいっていたので、見た人はかなりいると思う。まあ、控えめにいっても龍としか見えない大きな雲であった。

そして10月29日。熱海で、『ヤスの備忘録』の高島康司氏のセミナーが前日28日の夕方からあって、コルマンインデックスでいうところの第9サイクルの終了(マヤ歴が終わる日。日本時間で10月29日午前9時。コルマン博士の最新の論文によると、28日以降も第9サイクルは続いているという見解のようだ。詳細は高島氏のブログを参照)に立ち会いながら勉強会を開くという、なんともシビれるような企画に参加していたのだが、一泊した翌日の午前中、まとめのセミナーのときに、旅館の窓から空を眺めていると空に龍がいた。今度はあわてて携帯で撮影しようとしたが、セミナー中だったのでまごつて、消えかかってるところをかろうじておさえたって感じ。下の写真がそうだが、これじゃアップしないほうがいいか。
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ちなみに、セミナーを午前中に終え、小田急線で厚木に行って息子と昼飯を食いながら酒を飲み、一杯加減で駅のホームに座ったら、バカボン山田さんから電話があり、「昨夜からミロクの世界になりました」と。
なぬ!と思ったが、コルマンインデックスのことかと思い、そう聞いたら、「なんですかそれ?」「知らないんですか? そのことをいってるんじゃないんですか?」「いや、聞いたことはあるけど、あれは来年の12月とかじゃなかったっけ?」この人は10月28日にマヤ歴が終わることを知らない。じゃあ、いったいどこからその情報を…。恐るべしバカボン山田。恐るべし高次元情報! ミロクの世界とはどういう世界なのか? 
そして我々はこれからどう生きていくのだろうか? こりゃ当分、バカボン山田さんのブログから目が離せないわな。

まあ、とにかく雲は雲だ。私には龍に見えたが、まあいいさね。

物の見え方は人によってかなり違うようだ。コロンブスが新大陸に着いたとき、原住民たちには、大きな錨を海に落とした巨大な帆船が見えなかったという話がある。彼らの現実ではそれまで帆船のようなものは想像だにできなかったので、意識が削除したらしい。ただ、部族のシャーマンの老人だけが、海に立ったさざ波に気づき、意識を調整すると帆船が現れた。シャーマンは部族の皆にその技術を教え、ようやく皆も確認したということだ。この話は、先に取り上げた『マトリックス・エナジェティクス』に出てくる。話の信ぴょう性に疑問を持つムキもあるようだが、著者のリチャード・バートレットがいうように私もこの話が好きなのだった。

現実はバームクーヘンのように何層にもなっていて、それぞれの層にそれなりの現実があるのかもしれない。それぞれの層(周波数)に意識を合わせることができるようになるとすれば、我々の現実に対する認識はどのように変わるのだろうか。

例えば誰かに、あなたは翌朝目が覚めると、あなたの娘さんはあなたの前にはいません、と催眠術をかけたとする。すると、その人は朝目覚めて、娘さんが目の前に立っても、娘さんを認識することができないのだ。それどころか、娘さんの真後ろにある時計の針を見ることすらできる! 娘さんはどこへ? 意識というか脳が認識するのはどうやら量子の海に漂うある一部の周波数のようなものらしい。私が見た龍のような雲も、見る人が見れば完全な龍に見えるのかもしれないし、ただの雲に見えるのかもしれない。

だいたい私は子どものとき、顕微鏡を買ってもらって、髪の毛とか鼻くそとかほこりとかあらゆるものを覗いていたが、レンズの調節の仕方によって見えるものが違うのが不思議だった。調節をいじると今まで見えていたものが霞み、消え、なかったものが浮かび、現れる。レンズの焦点うんぬんかんぬんで当たり前なのかもしれないが、どうも理屈がわからなかった。それで、世にいう幽霊のようなものもきっと同じことだろうと、これは一生研究するに値する学問だと思い立ち、日本に超自然現象研究所を設立すべく奮闘するのであるが、今のところただの酔っぱらいです。


女と子ども

昨夜は韓国の友人ふたりと飲みまくった。神田のやぶそばで熱燗を飲み、新宿ゴールデン街ではしご。
ひとりは途中でホテルに帰ったが(本当にホテルなのかしら)、もうひとりとは最後まで飲む。その人も出版関係の人で、韓国でも3本の指に入る大手出版社の局長さん。彼とは2年前に知り合った。韓国の出版業界にはなんのコネクションもなかったので、もう20年以上も韓国に住んでいる知り合いに、出版関係の誰でもいいからコンタクトを取って紹介してほしいと頼んだ。それでYさんと出会い、飲んでるうちになんとなく意気投合し、お互い韓国や日本に行けば必ず飲む仲になった。

なんで韓国の出版人とコネクションをつけたかったかというと、当時、デヴィッド・ホーキンズの『パワーか、フォースか』を読んでいて、カバーの袖に、韓国でベストセラーになって政府から称号を与えられた、と書いてあったからだ。わりとというか、かなりスピリチュアルな内容の本なので、これがベストセラーになって、しかも政府が称号を与える? 韓国とはどういう国なんだ、他にどんなものが読まれてるんだ、と興味を持ったからだ。

『パワーか、フォースか』は日本でも話題になったから知ってる人も多いだろうが、内容はキネシオロジーだ。キネシオロジーは簡単にいえば筋肉反射テスト。O(オー)リングテストが有名で、親指と人差し指、あるいは中指で輪っか(アルファベットのOの形)を作る。もうひとつの手で、何か自分の体にとっていいか悪いか調べたいもの(サプリメントとかタバコとか食べ物とか)を触る。そして輪っかがはずれないようにきつく力を入れといて、誰かに両手で開かせてみる。体にいいものだったら輪っかははずれないが、悪いものだと、どんなに力を入れててもなんなくはずされてしまう。筋肉は自分の体にとっていいものと悪いものを知っているということらしい。私は20代のときに当時勤めていた会社の社長にOリングテストを教わり、なるほどこれはすごそうだと思ったが、その後忘れていた。ホーキンズ(当たり前だが物理学者のS.ホーキングとは無関係。ちなみにビッグバン理論はガセですね)の本を読んでそういえばあったなあと。しかもOリングは今や常識だそうだ。

『パワーか、フォースか』では、もうなんでもかんでもキネシオロジーでテストしている。でもOリングではなくて、自分で片腕を横に水平に上げ、正面から誰かに指先でその手を下げさせるというものだ。あるいはその逆でもいい。誰かに腕を上げてもらい、自分で下げてみる。なにか調べたいことなどを声に出していい、正しいことだと手を下げられずに踏ん張れるが、正しくないと抵抗しても簡単に手を下げられてしまう。例えば、自分で「私には1000万円以上の貯金がある」と嘘をいってこのテストをやると腕が下がる。つまり嘘がわかってしまうのだ。「1000万円も貯金がない」というと、腕は下がらない。すごいのは、人間の意識も測れることだ。ホーキンズ博士は意識の段階を1から1000まで数値化していて、それぞれの段階に見合った名称がつけられている。20=恥、30=罪悪感、50=無感動、75=深い悲しみ、100=恐怖、125=欲望、150=怒り、175=プライド、200=勇気、250=中立、310=意欲、350=受容、400=理性、500=愛、540=喜び、600=平和、700~1000=悟り(手元に本がないのでこちらを参照した)、といった具合だ。
なんでも、人類全体の意識は206だったのが、203に下がったということだ。これはホーキンズが奥さんなどを使って、「人類の意識は200である」とか「201である」と細かく刻んでキネシオロジーテストをしてわかったことだ。というか、ホーキンズ博士でなくても誰でもできる。先の参照HPでも、この本を訳したエハン・デラヴィ氏が実演して見せている。人類の意識が200以下になると、争いが起き、世界はスパイラル状に悪化して滅亡するということだ。

人間の意識としては、たしかイエスとブッダが900くらいで最高レベルだったように記憶している。ほかに高い人でマザー・テレサもいたかな。あと、アメリカだかに世界の著名人の意識を片っ端から測定して調査している団体があって、現代人で一番意識レベルが高かったのは日本人で、GLAの故高橋信次氏だということを何かで読んだ(高橋信次は私もいろいろ気になって昔調べたことがあるが、相当すごい人だったようだ。いずれまた書いてみたい)。うーむ。今でも調査してるのかな。カミさんでも使って自分の意識レベルでも測定してみようかと思うが、もちろんしない。

ほかにも似たようなテストでフーチがある。振り子ですね。鉱石とか瀬戸物の箸置きとかに糸をつけて摘まんで垂らしておいて、同じように何か質問して、イエスなら右回りでフーチが回転しだし、ノーなら左回りになるとかいうやつ。筋肉のなせる業なのだろうが、本当の理由は誰もわからないんじゃないかな。ちなみにこのホーキンズ博士の顔は、本人には申し訳ないが私はどうも好きになれない。なんというか、あまりにもいろんなことを測定しすぎて、なにもかも知り尽くしてしまったかのような、超達観というか、孤独というか、どこかむなしさを抱えているように見えるんですね。余計なお世話か。

話がそれたが、とにかく韓国のYさんとは仲良くしてて、仕事でも絡み出しているが、本質は酒飲み友だちだ。Yさんの弟分のHさんとも親しくしてて、わりと3人で飲む場合が多い。一度韓国で全家族で集まって食事会を開いたことがある。男どもはふだんから飲んでるからいいが、カミさん連中はけっこう気を遣ってたようだ。でも、うちのカミさんと娘はちょっと異常なくらいのKPOPファンだから話題につまることはなかった。
そういう付き合いをしていると、嫌韓流とか、フジテレビや花王に対する抗議などが、どこかズレてる気がしてくる。金儲けに関する大企業の思惑や陰謀もあるのかもしれないが、普通に、自然に、ソフトやコンテンツの面でも人的面でも文化的交流を続けていけばいいんじゃないかしら。アジアの国同士でいつまでも仲悪くしてて、どこぞの連中を喜ばしてもしょうがないよ。あきらかにこれからは東洋・アジアの時代だし。あと、女と子どもね。今元気があるのは女と子どもだけだ。男はダメだ。みんな景気が悪いツラしてるもんなあ。実際景気は悪いんだが。今まではずっと男性優位の社会が続いてて、オンナコドモはだぁってろ!てな具合だったから、そのオンナコドモに復讐されてるのかもしれない。いずれにしろ、これからはこのオンナコドモたちの上昇気流にのらないと商売でもなんでもダメだと思いますがね。

雲を消す

昨日は合気柔術の2回目の稽古。実は先週、アスファルトで酔っぱらってすっころんで左足の膝と尾てい骨をしたたかに打ってしまった。そのときは酔ってるから、あ、痛ぇ! で済んだが、翌日見ると膝が腫れて血が出ている。これは、次の稽古はできないんじゃないかと思った。だって受け身とれないだろう、痛くて。
でもまあ、そこは根性でのこのこ出かけたが、やっぱりダメ。最初はよかったが、師範にスッ、ストンとやられたら尾てい骨にガーンときた。座とり(正座でやる)にしましょう、ということで何とか稽古してもらった。

ケガといえば、去年だったか、パワースポットの本(けっこう売れた。それからちょっとブームになったし)で監修してもらった天野雅道さんもいってたが、これから(アセンションに向けて)、病気とかケガ、トラブルなど、ネガティヴな体験をしていく人が増えるだろうが、それは必ずしも悪いこととは限らず、その人のカルマ(業)を清算しているのだと。これまでだったら、そういうことはある程度時間をかけて起こるのだが、アセンション期間に入ると、人によっては早く清算させようとして、そのテのことがいろいろと起こってくるらしい。
アセンションについてはまた別の機会に書いてみたい。

たしか東洋医学でも瞑眩(めんけん)といって、具合の悪い体に何か施した後、症状が一層悪化することがあるが、それはいわゆる好転反応で、悪いものを一気に出して体をもとに戻すという自浄作用らしいから、先のケガの話も同じようなことなのだろう。そういうことだから、私も清算清算と喜んでいようと思うが、いまだに痛くて、先週首が痛くて寝るときに頭を持ってたように、座るときに手を突っ張って尻を持ち上げて腰かけてる。情けないことこのうえない。

それにつけても合気柔術のすごさよ。相手の肉体ではなく、肉体を流れてる、といっていいのか、取り巻いてる、といえばいいのか、よくわからないが、とにかく気(エネルギー)のようなものをとらえなくてはならないから難しい。それをとらえたときは、私のような初心者でも、ほとんど力を使わないで相手を倒せる。
師範や兄弟子には、そうそれそれ、その感じ、といわれるのだが、私自身は目が点で、何の手ごたえもないのだから何がいいのかわからない。もう考えるのをやめて、バカになって同じようなことをするしかない。
まだまだ習得への道のりは長そうだが、とにかく続けることにしよう。

しかし、最近テレビがほんとに面白くない。まあ、一部のドキュメンタリーとかドラマとか海外の番組で興味深いものもあるが、特にバラエティ関係、お茶の間ニュース的なやつ(コメンテーターが何人か出て何かいう)は、もうなんというか、ギャグですらないような…。玉蔵さんじゃないが、たしかにシュールともいえる。
こいつらに魂というものがあるのかな、と思ってしまう。ちょっと違うな。出演してる人たちも自分の役割を一生懸命演じてるのだろうから、個人的にひとりひとりの人間性のようなものに対してとやかくいいたいのではなく(だいたいその人の人間性なんてわからないし)、その番組のノリというか流れというか、構成といったらいいのか、こうしたらこう反応してこういうふうに持っていって視聴者はこう受け取るだろう、というようなものが絶望的に古いというかズレてる気がしてしょうがないのだ。これは誰が悪いのか。いいとか悪いという問題ではないのかな。視聴者が求めてるから内容もこうなるのか。そうじゃないだろう。やっぱり番組を創ってる側に問題がありそうだ。何か面白いもの、を創造できなくなっているのではないか。これまでの既成概念を超えて想像するという力が、そういうものなくしては成り立たないはずの仕事に従事してる人たちになくなってきてるとしか思えない。

考えてみれば、大企業だったり高年収だからという理由で会社を選ぶようなことになってしまったツケなのかもしれない。いわゆる大会社に入ること自体が目的だから、ソニーとフジテレビと講談社とキリンビールを受けたりする。景気がいいときはそのまま与えられた仕事をこなして高い給料を貰ってればよかったが、不景気でどん底のときは、その業界や会社の生き残りがかかってくるから、世の中の流れを捉える力とか斬新な発想力とかとんでもない企画を実行してしまうと突破力とか、そういうものが切実に必要になる。というか、それがないとその業界なり会社はまずつぶれる。
やはり人なんですね。人材という言葉は使いたくないけど。ちなみに、講談社とか書いたが、並べるのはちょっとおかしいね。出版業界なんてちっぽけなもので、全部たばになってかかってもキリンビール1社の売り上げにもならないだろう。そんな業界の片隅で生きてますです。

話がしみったれてきた。落語だったらここで八五郎が都々逸のひとつふたつかますのだろうが、こちとら無粋な酔っぱらいだからなあ

あ、あと、『森の魔法』でchachaiさんのコメントを見て思い出したけど、雲は消したり出したりできます。
知ってる人は知ってるけど(当たり前だ)、水の結晶の研究家で有名な江本勝さんがいっている。
空に浮かんでる雲の中から適当なのを見つけて、その雲に念のようなものを照射して消してるイメージを送る。そして、雲が消えました、ありがとうございました、と声を出して過去形でいう。そうすると、しばらく見てると雲が消える。これは誰でもできます。ウチの娘でもできる。不思議だけど本当だからしょうがない。
江本さんにいわせると、一時期これがはやって、ある学校では「雲消しは禁止」になったらしい。
その話は知らないけど、なんか楽しくありません?

天変地異は起きるのか?

2011年も終わろうとしている。
近所の居酒屋でカミさんとモツ鍋をつつきながらそう思った。
カミさんは隣の中高年男女のシモネタ話しに聞き耳を立てているらしい。
ここ数年は12月になると、もう12月かよ、と思ったものだが、今年はなんとなく長く感じる。
特に震災からは長い。8月も長く感じた。全体的に夏が長かったように感じる。
まあ、今年は暑い日が続き、本来は秋のはずなのに真夏日があったりしたからそう思うのだろう。

東日本大震災のダメージは大きい。福島の原発のこともそうだが、私の先輩のように、人生観が変わった、という人も多いようだ。私自身は、人生観が変わったというほどのことはないが、いろいろと気づかされることは多くなったように思う。これまでの人生の延長線上のラインとは、はっきり別のラインで考えることが多くなったようだ。それって、人生観が変わった、というべきなのかなやっぱり。

私の場合普段から現実の生活においても、けっこうラインということを意識していて、不快なラインにのっていると感じたら、そのラインを変えるようにしている。これはわりと無意識に昔からやってきたことだが、数年前にヴァジム・ゼランドトランサーフィンシリーズを読んで心底驚いてから、その方法論を自分なりに研究するようになった。このシリーズは現在までに4冊出ていて、もう何回読み返したかわからないが、いわゆる引き寄せの法則とは似て非なるものだ。もっと自主的で、創造的で、倫理的で、他力本願的だ。なんだかわからないか、これじゃ。とにかくわくわくする本なのである。私はこの本のおかげで、これまでよりももっとスピーディに世界に対してときめいていたころの自分を取り戻すことができるようになった。

この2か月、12月と1月だが、日本にまた大地震がくるという情報がある。サイキックの情報だけではなく、北大の森谷氏の研究に代表される(森谷氏のHPは削除された)公的機関側の人間からや、在野の地震予知関係の研究家からも同時期の地震が警告されている。日付も、12月10日~17日、1月4日~7日あたりに集中しているようだ。はたしてまた地震がくるのだろうか? おそらくくるのだろう。ただその時期と規模は今の段階ではまだ未定なのではないか。私なりにいろいろ調べたり考えたりすると、そうとしか思えない。

沖縄のサイキック比嘉良丸氏は2010年から3.11のヴィジョンを見続け、警告を発し、またなんとか回避しようとして祈りの神事をしてきた方だが、結局回避することができなかったと講演でよく語られる。自分ひとりの力ではどうにもならなかったと。そして今、再度同じようなヴィジョンを見続けている。だから、ひとりでも多くの人が、大難が小難になるように祈ってほしいと。祈りの力についてはまた別のときに書いてみたいと思う。つまり、今われわれ日本人は地震がくるようなラインにのっているとしても(そしてたぶん様々なサイキックや研究家の警告を知れば知るほどそう思わざるを得ないが)、地震が起きる時期や規模はまだ決定しているものではなく、そのラインを共有しているわれわれの思いで変えることができるのではないかと。

さらに私は、地震がまったくこないラインもあると思っている。
そのラインにみんなでのり換えれば地震はこない。でも人はひとりで生きているわけではなく、家族もいれば、友人、同僚、電車に一緒に乗り合わせた見知らぬ乗客などなど、様々な人とともに一緒に生きているから、超人的な思念の持ち主でもないかぎり自分ひとりの力で大きくラインをずらすことは難しいだろう。そのあたりのことは、先のトランサーフィンシリーズの本に詳しく書いてある。日本に起きることは、日本人の思いが創っている。もちろん海外の人間の日本に対する思いもある。日本人の多数が私利私欲に走り、自然環境を破壊する方向に行けば、そしてそれが日本の国土あるいは地球の生存に反することであれば、当然しっぺ返しをくらうだろう。『大本神諭』『伊都能売神諭』から今話題の『日月神示』にいたるまで、共通して降ろされてる神諭はそういうことをいっているのではないだろうか。

あまり無責任なことはいえないが、放射能も地震も、意識の持ちようでその意味というか影響を変えることができるのではないか。特に放射能に関しては、こちらからこちらまで両極端な意見があるので、混乱している人も多いと思う。私はできるだけネットや本で調べたり、あるいは講演会に参加したりして、極端の両方を知るようにしている。あとは自分のカンで判断するしかないんじゃないか。特に放射能については、私はわりと楽観視しています。前回紹介したリチャード・バートレットや今回のヴァジム・ゼランドを知ると、現実は自由に創造できるものなのだと考えざるを得ないからだ。しかも両氏は、こういうことは自分の個人的な考えなどで出てくるものでなない、といっている。…じゃ、どこから? 

気の体

ブログを始めたのはいいが、いろいろいじくりまわしてるうちに書いた記事を消してしまった。
そして今度は管理画面に入ることができなくなった。
サポートセンターとあれこれやりとりをしてようやく再開。
結局、自分のPC音痴が原因だった。情けな…

気をとりなおしてまた始めよう。

先日、合気柔術の初稽古に行ってきた。今もあちこち体が痛い。筋肉痛です。
特に首の筋肉が痛く、仰向けに寝ようとすると首が痛くて頭を支えることができない。
手で頭を持って枕にのせる感じ。どんだけ体がなまっているのか。
使った覚えがないのに太ももの筋肉も痛く、通勤も何か障害がある人のように歩いている。
最初のうちは皆そうだといわれたが、私の場合はちょっと度が過ぎているような…。

合気柔術は、合気道のように関節をきめたりするわけではない(ちょっとはあるようですが)。
信じられないことだが、ほとんど筋肉を使わないで相手を倒してしまう。
筋肉を使わないのに筋肉痛というのもへんだが、自分の場合はまだ初心者なので、受身のときにふだん使わない筋肉を急激に使ったせいだと思われる。筋肉を使わないでどうやって相手を倒すのか。
実は私もよくわかってないのだが、どうやら相手のエネルギー体というか気を利用しているようだ。
たとえば、私が師範の側頭めがけてパンチを繰り出すと、師範はまず腕で払うように受けて、そのまま私の手首を握り、私の腕を下に捨てるようにする。すると私は畳にひっくり返る。ほんとにスッ、ストンという感じ。
なんというか、自分の体を肉体ではなく、気だけ(エネルギーだけ)にして、相手の体も同じようにして、そしてその気(エネルギー?)を操っているのだと思う。上級者同士の稽古を見ていると、相手にがっちりと両手で腕を掴ませ、そのまま片手で相手の体を軽く持ち上げたりさえしている。
まるで相手の体に重量がないかのようである。どうなってるんだろうか。

合気柔術を始めようと思ったのは、目に見えない力に興味があったからだ。
「気」もそうだろうし、サイコキネシスのような超能力もそうだ。なんだかわからないが、あきらかにある力があって、人間は自分の意思というか意識によってそれを使うことができる。
イエスが水をワインに変えたり、病気を治したりしたのもそういった力を使ったのではないか。
現代にも、ブラジルの心霊手術師やある種のヒーラーのような、いわゆる通常の科学や医学の常識では説明のつかないことをできる人たちがいる。
マトリックス・エナジェティクスリチャード・バートレットもそうだ。
彼の「ツーポイント法」は、両手で相手の体のある2点に触れ、意識上でそれらをリンクさせるだけで、病気を治したりする(それも病巣そのものが消えたり、骨折ならその場で骨がつながったりする!)だけでなく、タイムトラベルまでできてしまう。つまり、患者なりがケガをする前の時点までさかのぼり、ケガ自体をなかったことにしてしまう! 量子物理学で説明はつくらしいが、いやはや人類はすごいところまできているようだ。というより、本当は誰でもできる当たり前ことがあきらかになってきたというべきか。
量子理論によれば、現実は誰にでも好きなように創造できるということになる。

とまあ、それなりの本を読んでいる人にとってはもはや常識であろうが、私の場合、不勉強というか、一般常識の洗脳が解けてないというか、どこかにまだ疑いがあるようだ。それでもそれなりにいろいろ体験をしているので、今後、記事にしていくつもりだ。それはともかく、そういった具合だから、自分の頭で屁理屈をこねるだけではなく、身をもって体験しようと思ったわけだ。そこへ、たまたま知人が合気柔術に入門したというので、頼んで稽古を見学させてもらい、そのまま入門した。初日の稽古は夜7時からだったが、稽古が終わったあとは皆で居酒屋に繰り出すのが恒例らしく、私も参加し、師範たちといろいろ話をした。予期していた通り素晴らしい人たちで、これからの世の流れというか人類の進む道(ちょっと大げさかしら)をきちっと見定めているようだった。合気柔術のことも量子理論と絡めて認識されているようだった。なぜあのようなことができるのか、という私の質問にも、あまり解釈しないようにとたしなめられた。ブラックボックスにはあまり立ち入らない。西洋はブラックボックスを細かく細かく分析しすぎる。「解釈」しすぎてしまうと可能性を制限することになる。

その通りだ。私はオノヨーコの「人間が想像できることは実現可能だ」という言葉を聞いたとき、本当にその通りだと思った。解釈、分析も必要だろうが、想像するほうが楽しいやね。

師範によると、合気柔術の達人になると、相手にどこを掴まれてもスッと倒すことができるという。
そしてその状態を「気の体になる」と表現するらしい。私は温かい焼酎を飲んで陶然としながら、合気柔術は古典物理学から量子物理学への橋渡し的な役割を担っているのかもしれないと思った(師範も同じようなことをいっていた)。しかも自分の体を使って実感できる。それから、いわゆるアセンションについても思いが広がったが、面倒だから考えるのをやめて酔っぱらうことにした。おいおい考えていくことにする。
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プロフィール

∞酒林∞

Author:∞酒林∞
世の中の皆様こんにちは。
私はただの夢見る酔っぱらい。
夜な夜な昼間にそば屋うなぎ屋ラーメン屋、
飲んで歌って吠えてます。
いつまで続くか酔っぱらい。
帰ってくるのか酔っぱらい。

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