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薔薇の木に・・・

薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。ナニゴトノ不思議ナケレド。

小学校の卒業文集に担任の女の先生が北原白秋の詩を載せて、この詩の意味がわかるようになったら訪ねてきてください、みたいなことを書いた。さっぱりわからなかった。しかも当時私は、ナニゴトノ不思議ナケレドを、何事も不思議だ、と解釈していた。不思議ナケレドを不思議ダケレドとなんとなく思っていたのだ。中学くらいだったかであれは、不思議はないけれど、だろうと思った。ということは、薔薇の木に薔薇の花が咲く、何も不思議ではないんだけど・・・といった意味になる。つまり、薔薇の木に薔薇の花が咲いている。何も不思議なことはなく当たり前のことなんだけど、やっぱりよく考えてみると薔薇の木に薔薇の花がちゃんと咲くのはなんとなく不思議なことだ、といった意味だろうと思う。すると、私の勘違いでは、薔薇の木に薔薇の花がちゃんと咲く、そういった世界のことごとくがどうにも不思議だ、といったふうに思っていたのだが、意味としては同じことになりはしないか。正確に同じではないにしても、たいして変わりない気がする。
もちろん私の国語能力に問題があったのは間違いないが。

こうした勘違いというか思い込みは私には昔から多々あって、古い話で、またとてつもなくくだらないので恐縮だが、アニメの『タイガーマスク』のオープニングの歌で歌詞に「ルール無用の悪党に・・・」という箇所があるのだが、私は「ルールぶようの悪党に」と思っていた。そう聞こえたのだ。友だちと大論争になった。「無用だ」「ぶようだ」と、小学校の休み時間に何人も巻き込んでの大討論になった。「無用」派にしてみれば、「ぶよう」じゃそもそも意味が通らんだろうというしごくまっとうな理屈だ。ひるがえって私を始めとする「ぶよう」派は、だってそう聞こえるからそうなんだ、というものだ。そしてなんと「ぶよう」派のほうが多かったのだ。
バカですねえ。「ぶよう」派にもう少し教養があれば、たしかに「ぶよう」と聞こえることは聞こえるが、意味からしてやはり「無用」だろうと考えただろう。

いや、なんでこんなくだらない話をするかというと、このクセがどうも娘にも遺伝してるのか、あきらかに娘の勘違いであることでも、娘は自分で納得しない限りガンとして譲らない傾向がある。とくに小学生のころに顕著だった。いくら説明して聞かせても聞かない。絶対違う!あるいは絶対そうだ!と言い張る。まるで自分の小さいころを見るようで恥ずかしかったのだが、私と違うところは、完膚なきというか、マトモであれば認めざるを得ない証拠を突きつけて説明すると、あっそうか、とこちらが拍子抜けするくらいにあっさりと認め、あとは何事もなったように次の話題に移る。私だったら平謝りに謝るか、とてつもない自己嫌悪に数日は陥入ること間違いない。女というものは・・・。

つまり、思い込みということについてです。あるいは固有の実体験とか。自分で確かに経験したこと、そう聞こえたとか、実際にこの目で見たとか、自分が感じたことだから間違いはないということ。私の経験からも、やはり自分で見聞きしたことは間違いないし、そう主張したい。でも先の例はたしかに超くだらない、レベル低くっ!って感じだけど、私が間違っていたことには変わりはない。いや、本当に「ぶよう」と聞こえたんだから、それは間違いないんだが、歌詞のコンテクストからいってもあれは「無用」が正解だ。いちいちそんな検証をする必要がないくらい当たり前のことなんだが、当時はマジで大論争になったのです。でも、白秋の詩の解釈のように、あきらかに私の読解力不足からくる勘違いなんだけど、結論としてはあまり大差がなかったという場合もある。大差がないどころか、その解釈の違いは決定的だという意見もあるだろうが、私としてはわりとOKなのです。だから何がいいたのかというと、自分で実体験したことでも、再検証してみる、あるいは他者の意見や体験も参照して客観視する、そしてその実体験を再構成し再解釈し直してみる、といったことが(とくに私の場合)必要だろうと。そこでなおかつ残る、あるいは新たに発見される解釈というか結論みたいなものを暫定的な事実として記録する、ってなんだか屁理屈っぽいイヤな話になってきたな。

ここ数年、のべつではないが、ヘンな、不思議な体験が増えたように思う。中学のころから、死んでいてもおかしくない場面で運よくまぬがれるということがいくつかある。それはケガ系のことで、でもこれは多かれ少なかれ現時点で中年以上の年齢の人であれば誰にでもあることだと思う。覚えているかどうかはともかく。そういったことではなく、あきらかにこれはヘンだぞと思ったこともいくつかある。

数年前に親父が死んだとき、親族だけの通夜で、葬儀場の和室でみんなで酒を飲んでいた。たいした話題もないところで、弟が気を利かしたのだろう、親父の生前のエピソードを披露し始めた。たあいのない話だったが、親父にしてみれば多少抵抗がある話だったかもしれない。弟が話し始めたとたん、和室の蛍光灯がバチバチッ!と鳴って点滅しだした。一同おおっ!となり、しばらく蛍光灯を無言で眺めていたが、おさまったので弟が続きを話しだすとまたバチバチッ。親父は向こうで棺に納まっている。私は、こりゃ親父が嫌がってるみたいだからやめとけよ、とおどけて弟にいった。それからしばらく過ごしたのだが、なんのはずみかまたその話になった。そして酔った弟が話しだそうとしたら、またバチバチッ!ときた。偶然ということはある。でもあの場の誰ひとりとしてあれが偶然だとは思わなかっただろう。たいした話じゃないが、私にとってはけっこう記憶に残る出来事だった。しかも葬式が終わった後、夜ベッドで寝ている私の脇に親父がきて握手を求めてきた。私は生前もそうしたように、うっとうしそうにハイハイと握手をした。暗かったので姿は見えなかったが、親父がニコニコ笑っているのがわかる。握手はそれこそはっきりとした感触がある。もちろん怖くなんかはない。

あとは幽体離脱だ。寝ていて金縛りになったなあと思うとフッと体?が抜けてあっちゃこっちゃ行く。幼いころに遊んだらしき公園とか、盛り場とか、知らない外国の屋敷だとか、宇宙とか・・・。楽しいのは空を飛んでるときで、ものすごく気持ちのいい風が顔に当たる。下は見たことがあるようなないような海湾で、夜なのか工場らしき明かりが見える。そのまま空を移動して、大木にぶつかりそうになるがぶつからないことは知っている。なんというか、地面に降りるときもそうだが、木や地面に降りようと思えば降りられるし、そのまま通り抜けることもできる、地面すれすれでまた舞い上がろうとすればそれもできる、自由自在だ。一時は楽しみにしていたこともあるが、最近はないなあ。もちろん一種の夢のようなものだと思うが、どうにもリアルだ。夢にしたって夢を見てる間はそれなりにリアルなものだが、そういった感じとはまた違うのだ。

先の話ではないが、なにがしかの検証が必要になってくれば、またなにかわかるかもしれない。

その他、シンクロニシティ、直観、予感などにまつわることなどいろいろあるのだが、たいくつな話になりそうだからやめる。もちろん勘違いもたくさんあるだろう。でも、私だけではなく、きっと多くの人がこうしたことをここ最近で体験する機会が増えているんじゃないかと推察するのだが、どうだろう。さらに今後は、これまでただのオカルト話として脇に追いやられていたことがどんどん表出してくるような気もする。いや、オカルトやスピリチュアル系の盛り上がりを期待してるんじゃなくて、今まで非常識とされてきたものが実はとても役に立つことがわかった的なことを期待している。理屈はどうあれ、楽しく、平和であることになじむ新(再?)発見は大歓迎だわね。

テレポーテーションできる焼酎とか発明されないかしら。
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言葉

今は何事もなかったように普通に声を出して喋っているが、年末は風邪でほとんど声が出なかったのを思い出した。というか、そのことをブログに載せようとして途中まで書いたことを思い出したのだが。あのときは熱こそ出なかったものののどが痛く、2、3日声が出なかった。声が出ないということは意外とストレスになった。早く治んないかなあと思っていたのに、いざ治ってみると喜んだのは一瞬で、今じゃ声が出るのが当たり前になっている。インフルエンザが流行りそうだとかいうニュースを見て、そういえば風邪引いてたなあと思い出し、そういえばそれについてなんか書いたなあとさらに思い出して、こんなことを書いている。

当時は家でゲボゲボ咳してて顰蹙をかった。ジーサンといるみたいだとかいわれた。おまけに声がかすれて出ないから、キモいから喋るなともいわれた。新宿ゴールデン街では、その声のほうがセクシーでいいわよ、といわれてたのにだ。

声は、遺伝では一番似るということを聞いたことがある。そういわれてみると、子どものころ友だちの○○くんや○○ちゃんちに電話をかけて本人のつもりで話してると、実はお父さんだったりお母さんだったり弟だったりすることがよくあった。今でも自宅に電話してカミさんが出たのか娘が出たのかわからないときがある。一瞬ひるむのだが、カミさんのつもりで話していると、しばらく経って娘がケラケラ笑ったりする。逆の場合もある。DNA的になにか強力に根拠のあることなのかもしれない。まして電話だから相手の顔も見えないし、本人だと思い込んでいる場合はまず信じてしまうのではないか。振り込めサギがなくならないのもよくわかる気がする。電話じゃなくても、玄関越しとか、相手の姿が見えないときは声だけで判断するのは危険な場合もありそうだ。我が家でも「山」「川」くらいの合言葉は作っておこうか。

声ものどから発せられて空気を震わせて人の耳に届くのだから波動の一種だろう。同じ人の声でも、そのときの喜怒哀楽によって声の調子というか振動が微妙に変わるのか、あ、この人怒ってるなとか、喜んでるってことがわかったりするから不思議だ。いくら抑えても想いというのは声に出てしまうものなのだろうか。また、人それぞれ、声自体に好き嫌いがあるようだ。私もポール・マッカートニーよりはジョン・レノンの声のほうが好みだ。好みというとちょっと違うな、ジョンのほうがかっこいい声だと思う。女のボーカルでも、ユーミンも中島みゆきも曲は好きだし、彼女たちが歌ったほうが合うとも思うが、声はあまり好きではない。倍賞千恵子や中山千夏や若いころの森山良子のほうがそれこそ好みだ(古いなあどうも)。でも、この好みというのは本当に生理的なものだ。セクシャルなものかもしれない。惹かれるというか。でも、嫌いな声の異性とつき合えますか? ましてや結婚となれば基本的に一生一緒にいるわけで、相手の声は重要だと思う。あるいは、人は自分と相性のいい声の人を無意識に選んでるのかもしれない。それは波動が合うということにもつながる。だいたい嫌なヤツ系の声は感じが悪い場合が多い。大声で相手を威嚇したり押えつけたりすることに慣れてるヤツの声とか、普段から人を見下したり軽蔑したりしてる傲慢なヤツの声とか、初対面だとしてもなんとなくわかるものだ。

言霊(ことだま)とはよくいうが、その言葉自体の意味とか、言葉に籠められてる想いのようなものが、その言葉を発することによって一緒に出てくるということだろうか。以前も書いた江本勝氏は、水の結晶の実験で、まさに言葉の力を実証してみせた。水に、ありがとう、のような感謝の言葉をかけた場合と、バカヤロー!のような言葉をかけた場合とは結晶の形が違う。全然違う。江本氏の本には結晶の写真がたくさん載っている。琵琶湖の水の結晶、それも水の汚れを浄化する祈りを捧げる前と後の結晶の写真とか、大日如来だったかな、神様の名前や「666」のような数字を水に見せた?後の結晶とか、いろいろと興味深い写真がてんこ盛りだ。一番きれいな結晶は、やはり感謝系の言葉だった。人間の70%は水だ。骨を除けば90%が水だ。言葉が水にこのような影響を与えるのならば、当然人間の体にも影響があるはずだ。慇懃無礼という言葉があるように、もちろん言葉だけがていねいでもしょうがないのは言うまでもない。どんな言葉であれ、その言葉にどんな想いがのっているのか、人は無意識でも感知しているのだろう。人間に対してだけではなく、言葉とは、きっと思っている以上に今自分が置かれている状況(現実が継起していく起点)に影響力を持っているのかもしれない。言葉ひとつで現実が変わるかもしれないのだ。

言葉ではないが、私は舌打ちというのがどうも昔から好きじゃなかった。なんかイヤなんだよね。言葉に出して、チェッ、とかいうのはまあいい。女のコがいうとかわいいとすらいえる。でも、思わずというかはからずも出る舌打ちは、なんかイヤなものを見た気がする。だから女の好みでいえば、嫌いな女の筆頭は、舌打ちをする女、ということになる。ちなみに好きな女は、雪女です。雪女ほど美しい女はいないと思っている。色が白く、クールで、清潔だ。クールビューティの権化のような存在だ。だいたいブサイクな雪女なんて聞いたことがない。雪女は美人に決まっている。冷たいキスかなんかして、ヘタすりゃ死んじゃう。なんて命懸けの恋なのだろうか。エロスとタナトスは一緒だとバタイユもいっている。なに興奮してんだか、また話が飛びました。

ともかく言葉は大切だということです。初めに言葉ありき、と聖書にもある。言葉の意味とかコンテクスト以上に言葉自体に力があるという説もある。特に世界でも珍しいというか、どこだっけなあ、どこかの国と日本にしかない母音言語というもの、中でも日本語にはどうも秘密があるらしい。あまり突っこんだ話になると私の手には負えないが、日本語には発音や表記も含めて、まだ解き明かされていない秘密がありそうだ。しずかに注目されている『日月神示』でも、イロハ48文字を独特の並びで唱える。

ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ


空海が修めたという密教の秘教中の秘教「虚空蔵求聞持(ぐもんじ)法」にあるマントラもそうだ。「虚空蔵求聞持法」はマントラを100万回唱えるというもの。それで自分の能力を高める。一説によると、マントラというマントラの中でも最強だとか。唱えるだけで、マイナス思考がプラスになったり、自分にとって良い現実を引き寄せる力があるともいわれる。ちなみに「虚空蔵」とはアカシックレコードのことだ。そのマントラとは、

のうぼう あきゃしゃ ぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか

である。これは、四国でお遍路するときにも唱えるというから、そんなにマイナーなマントラでもないのだろう。言霊言語学は非常に難解な部分もあるので、興味のある方は独自に調べると面白いかもしれない。そういえば、あの出口王仁三郎も言霊のエキスパートだった。ある日、山道かなんかである人が大きな岩だか石をどかそうと奮闘しているとき、王仁三郎が通りかかって、それは「う」の言霊じゃなきゃ動かないよ、みたいなことをいって動かしちゃったという逸話がある。どうやったのかね? 古代遺跡には、それこそどうやって移動させたのかわからない巨石の話というのがたくさんある。一生懸命現代ふうに解釈して、いろんな専門家が、こうやったのだ、ああやったのだと説明はするが、意外と言霊の力だったりして。

そんな大げさなことでもなく、単に言葉の使い方、いい回しだけで気分というか状況が一変するようなこともある。前に、四谷荒木町のオツな小料理屋である先輩と待ち合わせをした。先に私が着いて、ちびちびやっていたのだが、約束の時間を過ぎてもなかなか現れない。お互い同業者だから、忙しいのはわかる。でもちょっとこれはないんじゃないかというくらい遅れてる。自分でもイライラしてくるのがわかる。そこに先輩から電話が入った。「ごめんごめん、ちょっと出がけに用が入っちゃって。今もう車に乗ってるから、ほどなく・・・」そういって先輩は電話を切った。それだけでスーッとなにかがヌケていくのがわかった。とたんに気分がよくなり、酒を追加したりした。ほどなく・・・なんていい言葉だろうと。これはわかりにくいかもしれないが、私にとってはなんというか、いい感じに響いたのだった。あまりのうれしさに、店の女将をつかまえて、とうとうと今の心境というかいきさつを語って聞かせた。女将は、ニコニコしながら、そうそう言葉なのよ、といったのだった。

腹の立つことの多い世の中だが、お互い言葉だけは気をつけたいものですね。なかなか簡単にはいきそうもないけど。

狂馬楽

いきなり寒くなった。一昨日も東京は初雪が降り、外を歩いていると体の芯から冷えて、もう仕事なんかほっぽり出して温泉にでも入りたいと心底思った。いつから自分はこんなに寒がりになったのか。若いころは真冬でも半袖を着たりしてたのに。カミさんからも、なんでこの人は真冬にこんなうすら寒そうな格好をしてんだろうと思ってた、と一緒になってだいぶ経ってからいわれたことがある。こんな人で大丈夫だろうかと。大体からして服を持ってない。パンツも2、3枚しかない。まあ、貧乏というか、そんなものに金を使うくらいなら酒飲んじゃうし。部屋にも何もない。冷蔵庫とテレビとビデオとレコードと本と布団しかない。普通か。電気とガスを止められて水浴びてたもんな。真冬に。けっこう気持ちがよかった。体温が高かったのは確かだ。熱があったのか。いや、風邪とかじゃなくて、内側から燃えてたってこと。じゃ、今は冷め(醒め)ちゃったってこと? 歳くって脂肪燃焼率が下がったのかな。確かに痩せゆく(ハゲゆく)男ではあるが。

そんなことを妙齢の美人フリーライター兼編集者と出張校正の帰りの夜の神楽坂を震えながら話して歩いた。速攻でイタリアンカフェに入ってスープと鍋とワイン飲んだらようやく暖まった。
やっぱり酒はえらいやね。

落語に『鰍沢(かじかざわ)』って噺がある(もし噺を知らなくて、これから聴く予定のある方にはある種のネタバレになるかもしれない。でも落語だからいいかな)。六代目三遊亭円生が得意にしてたヤツだ。身延山に参詣に出た男が吹雪で道に迷う。ようやく一軒のあばら家を見つけて宿を請う。そこにはお熊という昔吉原にいた月の兎(と)花魁(おいらん)が亭主と住んでいた。亭主は仕事で留守だったが、花魁は男のために卵酒を作ってやる。吹雪の中を歩いて体が冷え切っていた男にとっては何よりのごちそうだ。この男が卵酒を飲む場面は何ともいえず、こちらまで体が暖まってくる。名人円生の凄いところだ。

『鰍沢』は落語中興の祖といわれる三遊亭円朝の作だが、その弟子の四代目橘家円喬(たちばなやえんきょう)の『鰍沢』がまた凄かったらしい。明治時代だ。男は卵酒の御礼に路銀(お金ですね)を渡すのだが、花魁は男が25両の包みをブチっと切るところを見逃さない。実は吉原を男と逃げ出して山奥に身を隠してるくらいだから、タチがいいわけがない。卵酒には毒が仕込んであり、男を殺して金を奪おうという魂胆だ。気がついた男が吹雪の中をもんどりうって逃げるが、断崖絶壁に追い詰められる…とまあ、そんな噺なのだが、その円喬の描写力の凄さったらなかったらしい。かの文豪・志賀直哉も「僕の一生で感心した芸人が7人いた。役者で団蔵、噺家で円喬…」と7人あげるのだが、そのときも円喬の『鰍沢』だった。

「胴巻から路銀の包みを出す。それを見逃すようなお熊ではない。ジロリと見る流し目のよさ、凄さ。……下は名立たる鰍沢の急流…円喬はそういうだけだが、富士川の急流が岩を噛んでいる姿が、闇の中にアリアリと見えて来る」(『八枚前座』小島政二郎)

「さっきまで晴れていたのに雨が降ってきた。傘はなし弱ったな、と思ったら、雨ではなく円喬が『鰍沢』の水の流れているところを喋っていた」と古今亭志ん生はいい、八代目(桂)文楽も、「『鰍沢』の急流の描写では本当に激しい水の流れが見え、筏が一本になってしまうところも手にとるようにわかった」といっている(『落語大百科』川戸貞吉)。

六代目円生も自分が聴いた中で本当に名人だと思ったのは円喬だけだといっている。でも円喬という人は当時の噺家仲間には評判がよくなかったようだ。キザだとか、嫌なヤツだとか、さんざんいわれている。楽屋で人の噺を聴いていてケナシまくる。ありゃ芸じゃない、ただ喋ってるだけとか。気に食わないヤツがいると、そいつが高座にあがる前に、ちょっとあたしを先にあげとくれ、かなんかいって、鰍沢などをみっちりやる。するとあとからあがる者はシドロモドロになってひどい目にあう。客は今しがたの円喬の芸に魅せられているから、次の噺なんぞは聴いちゃいない。円喬はそいつがスゴスゴと退散する姿を見てキセルを吹かしながらニヤニヤしてる。それでも円喬の芸に対しては誰も文句がつけられなかったというから、本物の名人だったんですね。先の小島政二郎も、円喬が語り出すとそのうち円喬の存在が消えて、いつの間にか噺のままの状況が目の前に現われ出すというようなことをいっている。同じ噺でも他の噺家だとそいつの存在が邪魔をして噺に入り込めないことがある。

落語の『淀五郎』でも、芝居「忠臣蔵」で切腹をうまく演じられない淀五郎に中村仲蔵が助言する場面があって、そのときも淀五郎の演技を見た仲蔵は、客にうまいとほめてもらいたい、自分をよく見てもらいたい、という気が体に浮き出ているから見ていてキザでしょうがない、と淀五郎にいう。どうも、円喬というか芸の名人といわれる人は自分を消すことができるらしい。おのれをなくして「何か」を出現させている。

そういえば、この間も合気の師範たちと飲んでいたら、気を消す、という話になり、座敷で隣にいた師範が私に左の手の平を前に出してみなさいという。ちょうどボクサーのコーチがグラブを手にはめて相手に殴らせる格好だ。師範が、これから右拳で手の平をパンチするからよけてみろ、という。私はおっかなびっくり構えているが、師範がパンチを繰り出そうとする瞬間をとらえて左手を脇によける。パンチは当たらない。何回かスピードを上げてやる。私の反射神経がにぶいせいもあって多少パンチが当たるときもあるが、なんとかよけられる。ね、よけられるでしょ、と師範。で、気を消すとこうなる、とまたパンチを繰り出す。もろに手の平にパンチを食らう。何回やってもダメ。動けない、というか師範がいつパンチを打ってくるのかまったくわからない。読めない。これが気を消すということです、と師範がいう。私のような素人でも、相手がパンチを打ってくる気配のようなものを感じているのだ。昔、白土三平のマンガ『サスケ』でよく忍者が気配を消す場面があったが、あれは本当なのだと驚いた。気配を消すとはどういうことか。合気柔術の師範レベルで気を操れないときっとわからないことなのだろう。また話がずれてきた。といいながら、あながち無関係な話でもない気がしてるのだが…。

円喬は若くして死んだ。48歳くらいだ。同時代に三代目蝶花楼馬楽(ちょうかろうばらく)という噺家もいた。狂馬楽とも呼ばれ、さんざん酒と女(吉原)に身をやつし晩年は精神病院を出たり入ったりしていた。馬楽も48歳で死んだ。馬楽の生涯は祖田浩一の『寄席行燈』に詳しい。円喬のような名人扱いはされなかったようだが、その破滅的で自虐的な芸から多くの心酔者を集めた。なかなかの読書家で鋭い警句を入れながら話したという。先の志賀直哉も大ファンで、当時の日記を見ると三日にあげず馬楽を聴きに寄席に通ったりしている。晩年は酒毒(身につまされる)とおそらく梅毒で脳の調子がおかしくなり、高座でも妙な言動をとったりした。志賀直哉もしまいには呆れて、木戸番に「あまり酒を飲まないように」と言づけして1円を預けたというから、それなりに心配もしていたのだろう。当時の1円だ。米1升が13銭。男は日に2升5合ぶん稼いだら一人前といわれた時代だ。大の男の3日ぶんの稼ぎの祝儀をあげるのだから、やはり志賀直哉や吉井勇みたいな連中と庶民の差は歴然とあるね。それもド貧乏が多い噺家連中とは大違い。吉井勇は馬楽をモデルにした戯曲も書いている。ましてや志賀も吉井もまだ20代。でも彼らのような文士たちを惹きつけるものが馬楽や円喬というか落語にはあったということだろう。漱石だって三代目小さんをほめていたはずだ。考えてみれば、日本の近代文学の祖ともいわれる二葉亭四迷だって、あれ坪内逍遥だったかな、ともかく言文一致の小説は三遊亭円朝を参考にしたはずだから、落後はやはり凄い。

最後はガイキチ扱いされた馬楽だが、晩年の「たわ言」にはどこか考えさせられるものがある。吉井勇もそう思い、忘れられなかったから彼をモデルにして戯曲を書いたのでなないか。

狂馬楽の最晩年の語録。

「そりや可哀らしい魂ですぜ。あなたはまだ人間の魂がどんな形をしてゐるか御存知ねえでせう。ところが私はちやんと知ってゐるんだ。人間の魂つてやつは、ずゐぶん大小がありますけれど、まあ大きくつて碁石位、中には見えねえやうに小せえのがありますよ。紫君の魂はまるで南京玉位で、透き通つて真つ青なんでさあ。しかし、じつと覗いて見てゐると中には星だの海だのが見えるんですぜ。みんな硝子(びいどろ)で出来てゐるんだから堪りませんや。中にはずゐぶん壊れるやつがあると見えて、往来を歩いてゐると時々、魂の粉だらけのところにぶつかることがありますよ。さう云ふ時には気を付けなくちやいけませんぜ。うつかり他人の魂の粉を吸ひ込んで御覧なせえ。それこそ飛んだことになりますから。人殺し、放火、あれはみんなこの他人の魂の粉を吸ひ込んだ奴のすることなんですぜ。何しろ酒に酔つ払つたやうな工合になるんだから怖しうござんすよ」(『師走空』)

「何しろお前さんに一度その機械を見せてやりたいよ。ラムネや何かを作るやうなやつと違つて、何しろお前人間の魂を作る機械なんだから、ちょつと口で話したんぢやあ分らねえ位手が込んでらあね」
「この人間の魂つてやつは、もとが極くチヤチに出来上がつてゐるもんで――さうさな、まあ、硝子の壜見てえなものと思やあ間違ひはねえだろう。その硝子の壜見てえなもんのなかに生命の水つてやつが入つてゐるんだが、人に依つてこの水にいろいろの色があるんだて。赤いやつ、青いやつ、紫のやつ、黄いろのやつ、それから中には黒いやつもある。ちよつと待ちな。お前のはどんな色だか、今ちよつとおれが見てやろう」(『髑髏舞』)

「世の中に幽霊なんてねえなんて云ふやつがあるが、あいつは嘘ですぜ。幽霊はたしかにあるに違えねえ。誰でもみんな魂のねえやつはねえでせう。魂つてやつは円い硝子の壜なんだが、そのなかに入つてゐる水の色が人によつて違ふんだ。真つ赤なやつがあると思ふと、真つ青なやつがある。中には真つ黒なやつがあるけれども、こいつは一番小さいのさ。しかしこの真つ黒なやつは今にだんだん多くなつて来るね。私のも真つ黒だ。あなたのも真つ黒だ。この魂を時々壊すやつがあるんだね。何しろ硝子だから直ぐ壊れらあね。さうすると大変だ。直ぐ気狂ひになつてしまふ――」(『狂芸人』)


馬楽は何を見ていたのだろうか。そういえば、昨年亡くなった立川談志も馬楽が好きだったっけ。

芸人と旦那(パトロン)の関係というのも興味深い。馬楽たちの旦那だった鈴木台水とか、八代目文楽の旦那、ひーさんこと樋口由恵とか。みんな財産を蕩尽した。粋だねえ。芸術家にはパトロンはつきものだ。バッハだってモーツァルトだってワグナーだってパトロンがいた。
どうせ金を使うなら芸術につぎ込めばいいのにね。

カミさんも常日頃から、もし自分にお金があったら若くて才能があるKPOPアイドルのパトロンになるのに、といっているが、今のところその望みが叶う予定は当分なさそうだあね。


夢で逢えたら

年始は大きいのも小さいのも含めてやっぱり新年会が多い。今年もよろしくぅ、なんかいいながら結局飲むという繰り返しで、あっという間に一週間。もちろん飲むだけじゃなくて平常の仕事に年越しの仕事もプラスされるから、なかなかブログが書けない。家に帰って書こうと思ってもたいがい酔っぱらってるから(といってもこれは毎度のことだが)、年始は土日も普段より飲む機会が増えたりしていっそう時間が作れない。今度酔っぱらったまま書いてみようかしら。

昨晩、非常にリアルな地震の夢を見た。山に逃げても足もとから次々に地割れが起きる。ぴょんぴょん忍者のように飛び跳ねて移動しても、足もとに亀裂が入り、山が裂けて、地球の底を覗かせる。裂けると同時に地熱がうわっと顔にかかるのがなんともリアル。そのうち津波がやってくる。ダメだこりゃ、となかばいかりや長介状態だったが、それでも必死に木にしがみついたりしてる。もちろんまわりは阿鼻叫喚。ディテールをいえばまだまだあるが、まあいい。いや予知夢だなどというつもりはなくて、また最近連続してこういった夢を見だしたということだ。去年の3.11の1、2年前から洪水の夢はよく見てた。会社の同僚もそんなことをいっていた。最近よく見る夢があるんですよ、どんな夢?、洪水の夢、なんてことをいってた。そして3.11がくるわけだが、どうしたわけかその前に洪水の夢を見ていたことを忘れていた。というか震災と結びつけることはなかった。前に見た洪水・津波の夢は、4回あって、そのどれもが今回のようにリアルな、もう現実としか思えない夢だった。実は先の6日の玉蔵さん・パスヘブ嬉し嬉しコンサートのあった夜も洪水の夢を見た。長野のホテルに泊まったのだが、その部屋らしきところにいて、なぜか海のそばで、部屋の窓外まで水が押し寄せて水位が上がっていくのが見える。

去年は洪水ではなく、戦争の夢もリアルだった。街中にいて、空を見上げるとびっしりとB29(のわけはないが)のような戦闘機に覆われていて、雨あられと爆弾を落としている。近場のビルに逃げ込もうとするが、なんの意味もないことはすぐわかる。そのときも、ダメだこりゃ、だった。別の洪水の夢でも、山奥に逃げて、水路のような橋のような下に身を潜めて水を避けようとするのだが、向こうの高い山を越えて津波が押し寄せてくるのを見て、このときもダメだこりゃ、と思った。そういうときに不思議と恐怖感はない。もう観念してるのですね。どうしようもないと。笑っちゃう感じもあった。意外とそういうものなのかもしれない。夢の中では現実なので、ベッドでハッと目覚めたときは心の底からほっとした。文字通り夢でよかったと思った。しばらく部屋の中を見渡しながら平和に感謝した。ちょっと大げさか。

夢といえば、黒澤明の『』は黒澤自身が見た夢を題材にした映画だ。いくつかの短編で構成されているが、そのなかの「赤富士」は原発事故を予言していたのではないかとネットで有名になった。その他の短編も「夢」を題材にした場合の独特の雰囲気を醸していてなかなかにシュールである。どの短編も「こんな夢を見た」という字幕で始まるのだが、これは夏目漱石の「夢十夜」と同じ出だしだ。漱石の小説も十夜というくらいだから10作の短編からなっているのだが、こちらも柳田國男の「遠野物語」のような怪談じみた話が多い。さすがは漱石だけあって文章や構成がしっかりしているが、夢がこんなに論理的な展開をするはずがないと思うのだが、漱石クラスになると夢も小説的なのかな。漱石の弟子の内田百閒が「夢十夜」に触発されたのか、同じように夢を題材にした短編を書いている。「花火」とか「冥途」とか「サラサーテの盤」だ。高校のとき私は内田百閒が好きで、というか怪談話が好きで辿りついただけだったのだが、上の3作はとくに好きで何回も読んだ。でも、芥川龍之介にはこきおろされたはずだ。漱石先生のはちゃんと文学的に昇華されているが、百閒のは夢を夢のまま書いたからダメだとかなんとか。夢を夢のままに書けるなんてすごいことだと私なんかは思うんだけどね。「サラサーテの盤」は鈴木清順が『ツィゴイネルワイゼン』で映画化した。「サラサーテの盤」が一応原作になっているが、映画では「花火」も「冥途」もエピソードとしては入っている。この『ツィゴイネルワイゼン』も何度観たかわからない。あの非現実感というか、なにか悪夢を見てるような感じにハマった。

明晰夢」というものがある。夢の中で、あ、これは夢を見ているのだな、と気がついている夢のことだ。これは訓練すれば見ることができる。訓練などしなくてもときどき夢の中で気づくこともあるが、めったにないようだ。明晰夢だと何でも可能だ。それこそ自分で想像できることは何でもできる。不可能はない。空を飛ぶことも、なりたいものになることも、逢いたい人を登場させることも、本当に何でもできる。世の中には明晰夢の同好会もあるらしい。私も何回か見た。どこか外国に旅行してて、なんとも不快な目にあって、船かなんかに乗っているのだが、このまま降りることもできず先はまだ長い。気が重くなっているうちに何かを見て、あっこれは夢だなと思った。とたんに気分が高揚して、あっという間にシチュエーションを変えることができた。印象深かったのは、こちらが夢だと気づいたとき、不快の原因となっている夢の中の我が物顔のヤツが急にあせりだしたことだ。

ヴァジム・ゼランドによると、夢は通常我々が思ってるようなシロモノではなく、つまり日常見たり経験したりしたことで忘れていたことを潜在意識から引っ張りだして理性が構成するようなものではなく、完全にもうひとつのまぎれもない現実だという。脳はそんなに膨大な情報を貯蔵することはできないらしい。だから夢はいわゆる夢ではなく、量子論的に現実化の可能性をはらんだフィールドに魂が直接アクセスしていて実際に経験しているとのことだ。たしかに夢を見ているときの現実は普通にリアルだ。眠っていて理性の規制を受けてないぶん、目覚めているときのような常識には縛られないからシュールなことにもなってしまうが、夢の中では体験しているその世界の論理として整合性を持っている。ゼランドがさらにいうには、だからもしパラレルワールドとして実際に成り立っている世界にアクセスしちゃった場合、戻ってこれなくなる可能性もあるという。その世界で自分が現実化されちゃうわけだ。おいおいコワイこというなよ、とも思うが、だから明晰夢には危険がともなうというのだ。まあ、かなり低い可能性らしいが、ゼロではないらしい。あ、それから私がなんとかのひとつ覚えのようにゼランドの名を出すのは、私のようないまだ左脳偏重気味の者には、今のところゼランドのトランサーフィン理論が一番しっくりくるからです。超常現象その他、世界の成り立ちに関する真理?の論理的説明をも可能にしつつ、なおかつ実践的な生き方の提案としては現時点ではゼランドのものが最適ではないかと思っている。私にとってですけどね。

洪水にしろ地震にしろ、ここ数年私のまわりにさえけっこうな数の人間が夢に見ているということはどういうことなのか。スマトラやニュージーランドや東日本のような災害があったから、単純に天変地異を恐れている人が増えているからなのか。それとも近代化以降、人間のエゴによる拝金主義や環境破壊などに対する人類の後ろめたさが集合的無意識として形成されて、人類の良心のようなものが何かを清算しようとある種の出来事を現実化しようとしているのか。あるいは宇宙的レベルの知的意識体のたくらみか。はかりしれない壮大な必然によるものなのか。

私ごときには知るよしもないが、どうせ夢をみるならやっぱり好きな人と逢いたいものですね。

主語がない?

昨日(じゃないな、もうおとといだ)は玉蔵さんやバカボン山田さん、小麦ちゃんたちのパスヘブジョイント嬉し嬉しコンサートだった。どうなっちゃうんだろうといろいろ懸念される中、2012年1月6日、見事、のろし(何の?)をぶち上げてくれました。玉蔵さんパスヘブを始め、関係者みんなの思いの成果だろう。玉蔵さんは、ブログを書いてるときもそうだが、何か自分が書いてる、自分がやっているという気がしないという。なんだかわからないが突き動かされるものがあって、自分はその思いに従っているのだという。そうせずにはいられないのだ。誰もが納得するような、いわゆる世間的に合理的なところではないところに根ざしているようだ。その思いを伝える難しさみたいなものは、玉蔵さんのブログとはうって変わって訥々とした語りからも感じられ、そのぶん思いの深さも伝わっくるようだった。

ヴァジム・ゼランドも自分の本について、この本にあるような内容は決してひとりの個人が思いついたとか、発明したとか、発見したというような類のものではない、と似たようなことをいっている。「自分」といったようなものを超えたところから届いているということだろう。

だいたい、これは自分が、あるいは誰かが最初に作ったとか言ったとか書いたとか、そういうことに過剰に重要性を置くのはなにかエネルギーの使い方を間違っているような気がする。たしかにそういうことで成り立ってきた時代とか世界もあったし、それはそれできっと何か意義があったのだろう。著作権とか、権利関係がそうだが、もう、ちょっと違うんじゃないか。「所有」という概念自体がズレてきている気がする。お金を出したからここからここまでは自分の土地だとか、海で泳いでる魚を大量に獲っていくらですって売るとか、もともと誰のものでもない、それこそ天からでも神からでもいいが、最初から自然にあるものを人間の都合で勝手に売り買いして、やれ環境破壊だ保護だと騒いでいる。今のようなお金のシステムも所有権という概念もなくなれば、自然にあるものはもっと大事に扱われてみんなで共存していく方法を模索するだろう。乱獲したり勝手なことをすればみんなが同じように困るからだ。お金に換えることができるとなれば、人より多く獲ってより多くお金に換えたくもなる。

土地や食べ物だけではなく、人も、たとえば子どもとか奥さんとか旦那も、所有という観点から考えて見ると面白いかもしれない。それこそ家族とは何だ?ということになるからちょっとヘビーか、これは。でも、昔は、東海アマさんが講演でいってるような村の夜這い制度の話を持ち出すまでもなく、普通の町中で遊んでる近所のガキは悪さをすれば普通に他の親からも怒られたし、他の子どもでも見知らぬ大人といれば、そのおじさん誰だい、と普通に警戒されたりして、疑似家族みたいなところがあった。同じ町内とか地域とか、近しいエリア内でのお互いの共存関係意識というか仲間意識があれば、なんとなく共通した利害も生まれるから住民にもそれなりの責任感が生ずる。地域としての仲間意識がなく近所づき合いも希薄であれば、家族至上主義になって自分の家族だけよければいいということにならないか? もちろん自分の家族を優先するだろうが、仲間意識があれば他はどうでもいいというところまではいかないんじゃないかな。

所有ということでいえば、自分と血がつながった子どもだから自分のものなのか? 自分と結婚してるから、あるいはつき合ってるから自分のもの? 子どもだっていくら血がつながってるとはいえ、アル中で生活力のない父親とパチンコ依存症の虐待母のもとで暮らすよりは、子どもができないまともな夫婦に預けられたほうがいいだろう。違うかな。でも昔は普通に養子ってあったし、生みの親より育ての親とか、遠くの親戚より近くの他人とか、血の繋がりはあまりアテになんないよってな言葉もある。

また話がとっちらかるが、とにかく人間でも魚でも土地でもなんでも、あらゆるもの同士が無駄に争わず仲良く和していくには血の繋がりとか所有の概念は邪魔というかいらない気がする。少なくともあまりこだわらないほうがいいのではないか。先の著作権とか知的所有権などもこれからはどんどんなくなっていくと思う。というか主張する人が減るんじゃないかな。放棄するとか。そういうものにこだわることが苦しい、不快だと感じる人が増えてくるような気がする。特許なんかもそうだろう。どれもこれもそれらにまつわるお金を独占できるという権利だから、そういうことが気持ち悪いという感じ。

玉蔵さんのいう自分が書いてるという気がしないというときの「自分」とか、ゼランドがこういうものは個人の考えではあり得ないというときの「個人」とは何なのか。いわゆる「私」というヤツ。近代的自我ということなのかもしれないが、日本人にはもともとそんなものはないという話がある。大澤真幸の『社会は絶えず夢を見ている』によると、もともと日本語には西洋語でいう意味での主語という概念はなかったらしい。西洋語の文は原則的にすべて主語から始まり、しかも主語は名詞で文頭に置かれるが、日本語にはそういう文はなかった。じゃあ日本はいつから西洋語のような主語を使うようになったか。どうも「大日本帝国憲法」あたりかららしい。明治22年だ。

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依り皇男子孫之ヲ継承ス
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス


「~は」が連続しているが、この文は当時の日本人にとっては相当違和感があったはずだという。それまでこのように「~は」で主語が続くような文がなかったからだ。大日本帝国憲法の約20年前の同じような公的な宣言文「五箇条の御誓文」ではどうか。

広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ
上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ


たった20年前なのに「~は」の文がひとつもない。もっと古い「武家諸法度」(1635年)はどうか。

文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。
大名小名、在江戸交替、相定むる所なり。毎歳夏四月中、参勤いたすべし。…

もっと古い7世紀の「十七条憲法」。

一に曰く、和を以て貴しと為し、忤うること無きを、宗とせよ。
二に曰く、篤く三宝を敬え。


いずれも「~は」の文はない。なんで明治中期に日本人にはとてつもない違和感をもたらしたはずの「~は」で始まる主語の文が出てきたか。翻訳文だ。大日本帝国憲法はドイツ人法学者が試案を作っている。初代内閣総理大臣の伊藤博文はそのドイツ人から教わったらしい。まあ、明治といえばイギリスに留学してた夏目漱石だって「吾輩は猫である」だからな。つまり主語なんてものは最近西洋から入ってきた概念だということだ。それまでに長い長い間、日本にはそんなものはなかった。よく、主語がない!とか、主語をいえ!とか、得意げにまくしたてるヤツがいるが、お前は外国のスパイかと。日本人はもっとおおらかな自然に溶け込んでるようなところから言葉を発していたのだ。西洋ふうの論理的な文法に則った言葉を話しだしたのはたかだか100年だ。日本人の記憶というか遺伝子には、自分とか個人とかいったいわゆる私的な概念が希薄で、もっと大きな自然というか宇宙的なものと脳だか心だかが奥で繋がっていて、そこを通してなにかを感じたり、衝動が湧いてきたりするんじゃないだろうか。

あまり大げさなことをいうつもりもないし、たしかに主語がないといいたくなるような主体性のないヤツもいるし、日本人の遺伝子とかなんとか、さっきさんざん血の繋がりがどうのこうのといったことと相反するような気もするが、いいたいことはわかってもらえるとおおらかな日本人に甘えることにしよう。しかし相変わらず話がまとまらんな。要するに、理屈であれこれ考えて行動するというよりは、これからは常識的にはありえないようなこととか、はっきりいえば常軌を逸してるといわれるかもしれないようなことでも、自分の奥から湧き出てくる抑え切れないものによって行動する人が増えてくると思うわけです。そういったもののひとつが先の玉蔵さんたちのイベントだったのではないかといいたいのでスた。

アイズ・ワイド・シャット

何事もなく穏やかに2012年の三が日が過ぎようとしている。明日は、玉蔵さんパスヘブジョイント嬉し嬉しコンサートのリハーサルがあるから、朝から会社行ったりデジカメ用意したりで忙しくなりそうだ。が、私はあくまで裏方というか冷やかしというか野次馬なので、皆の邪魔にならないように端っこで酒でも飲んでいようと思うのだが、顰蹙かうかなやっぱり。

のどの調子もだいぶよくなった。こんなに風邪?が長引いたのもかつてない。夜の咳が治まっただけでもよかった。カミさんからは、タバコのせいよ、といわれたのだが、たしかに最近タバコを吸い始めた。もう10年以上も吸っていなかった。前はだいたい2日に3箱くらいマルボロライトを吸っていた。ヘビーというほどでもないが、少なくもない。あるとき風邪をひいて、朝タバコを吸ったらすごくまずかった。うわっまず!と思ってそのまま吸うのをやめた。まあ、15歳からずっと吸ってたんだからもういいかっていう気持ちもあった。それで10年以上も吸わなかったのだが、禁煙していたわけじゃない。ただ吸う気にならなかっただけだ。それがバカボン山田さんと会って、山田さんが吸ってるタバコがすごくうまそうだったので1本もらって吸ってみたらこれがうまかった。久しぶりに吸ったからうまかったのか、そのタバコがうまいタバコだったのかはわからないが、私とは相性がいい気がした。どんなタバコだろうと調べたら、無農薬無添加の葉を使ったナチュラルなものだということがわかった。

吸うといっても、今のところ酒を飲んでるときに3~5本吸うくらいだ。タバコを吸うようになって気がついたが、値段が高い。400円以上は当たり前。私が吸ってたときは280円だったように思う。あと喫煙場所が極端に少ない。店内全面禁煙の店もたくさんある。そういえば2年くらい前、上野の焼き鳥屋のカウンターで同僚と酒飲んでて、同僚がタバコに火をつけたら隣のオヤジが、ちょっとやめてもらえます!と睨みやがった。私はそのときまだタバコを吸い始めてなかったが、私自身、人が吸うことにはなんの抵抗もない。同僚は、すみません、とぼそっといってタバコを引っ込めたが、おかしいだろと。禁煙の店でもなく、カウンターの上には灰皿がいくつも用意されていて、やめてもらえますだあ? お前が酒飲むのやめろ。禁煙の店行くか、お前自信がタバコを吸わないヤツの隣に行けと。だいたい上野の焼き鳥屋で酒飲んでてタバコがどうのとほざいてんじゃねえ。お前は酒飲みの風上にもおけないオカマ野郎だ。表へ出ろ! といおうとしたら、なじみのマスターが察知して、ごめんね、この人タバコ吸わないから、こっち来て飲まない? 悪いね、というからなんとか収まった。すみません、人間未熟で。

でも、世の中の禁煙、嫌煙はちょっと行き過ぎだ。まるで喫煙者は犯罪者のようだ。前になにかの陰謀論で、それはフィリップモリス系の利益団体とロックフェラー、ロスチャイルド系の金融、エネルギー関係の利益団体との縄張り争いだ的な話を聞いたことがあるが、実際はわからない。それとは別に、タバコはスピリチュアル的にも欠かせないアイテムだという話もあって、タバコ、大麻、線香のような煙が出るものの鎮静作用その他、煙そのものの効用などについてはまだ一般的に知られていない真実がこれからどんどん出てくるかもしれない。隠されていただけかもしれない。

煙が宙を漂っているところはどこか神秘的だ。タバコをくゆらして大きく吐き出すと、煙それ自体の重みなのか、空間にあるなにかエネルギー的な圧の分布によるものなのか、煙が独特の動きを見せて流れていく。映画なんかでもタバコの煙の印象的なシーンがある。ルキノ・ヴィスコンティの『家族の肖像』で、ヘルムート・バーガーたちが裸で抱き合うシーンもそうだ。例のイヴァ・ザニッキの『心遥かに』が流れる場面ね。シーン冒頭で画面の暗闇にタバコ(たぶんマリファナだ)の煙がふわぁと流れてくる。ザニッキの挿入歌ともあいまってなんとも抒情的なシーンだった。タバコではないが、スタンリー・キューブリックの遺作『アイズ・ワイズ・シャット』でも、フリーメーソンの儀式を暴露したといわれているシーンで、トム・クルーズが館に潜入すると、円陣を組んだ裸の女性の前を司祭がゆっくりと練り歩いている。司祭は鎖のついた香炉を振り子のように回転させている。香炉からは煙がくゆっていて回転するたびにあたり一面に煙を漂わせていく。ホールではラテン語だかアラム語だかなにか呪文のようなお経のような声明が流れていて、いやがうえにも陶酔を誘う。見ているこちら側にまで香炉の煙が匂いとともに漂ってくるようだった。

『アイズ・ワイド・シャット』はキューブリックが編集段階で急死したせいもあり、いろいろな憶測を呼んだ。フリーメーソンの儀式を暴露しようとして暗殺されたともいわれた。たしかにキューブリックは徹底して秘密裏に撮影をおこなったようだし、だいたい例のアポロ11号の月面着陸の映像もキューブリックの特殊撮影だといわれてるくらいだから、憶測のネタとしてはキューブリックにはいくらでも材料がありそうだ。アポロといえば副島隆彦氏の『人類の月面着陸は無かったろう論』は一読に値する。これを読んでなお月面着陸が本当にあったと主張できる人はあまりいないのではないか。副島氏の主張によれば、人類はまだ宇宙に行けるほどの技術を持っていないということだ。宇宙飛行士がしょっちゅう宇宙に行ってるじゃんといっても、国際宇宙ステーションは地上400kmくらいのところだ。月までは38万kmだからなあ。そこまで人類が行って戻ってくる。うーむ。でも、副島氏のいうように、世界中が釘づけになったあの月面着陸の映像はおかしい、という主張もその根拠もよくわかるが、だからといって人類が月に行ってないということにはならないんじゃないかと思う。別の解釈というか情報によれば、月に行ったはいいが、やはりUFOに遭遇しちゃったので、あわててNASAは前もって準備しておいたあのキューブリック(といわれている)の映像に急きょ切り替えたということだ。たしかにアポロ計画はその後尻つぼみになり、結局アメリカは宇宙開発をあきらめたかのような感じになる。これは、やはり人類には無理だからなのか、軍事的に知られたくない事実を隠しておくためなのかはわからない。ネットや書籍でも両方の見方がある。

話が飛んだが、キューブリックが最高傑作と自画自賛したという『アイズ・ワイド・シャット』は、そのタイトルからして意味深だ。目を、大きく、閉じよ、とは形容矛盾だ。これもいろいろ解釈があるようで、手で顔を被って見ないようにするのだが、指の隙間からちゃんと見る、という意味から、真実を目でちゃんと見たあと、やはりそれを忘れるために目を閉じる、人には知らなくてもいいことがある、といったような解釈まで、さまざまだ。それでも、キューブリックはなにかしらの真実というか事実を公開したかったのではないか。編集途中で急死したので公開された映像が本当にキューブリックが望んだものだったかどうかはわからない。噂によれば、映画では公開されていない儀式のシーンもあるということらしいが、まあ、この手の話になるといろいろ面白おかしく取りざたされるのが常だから、そのへんは個人的にもエンターテインメントにとどめておきます。あまりマジで突っ込むとドツボにはまるからねえ。

とにかく、タバコを吸い始めた私ですが、まわりのスモーカーたちが次々と禁煙に取り組んだり、実際に禁煙したりしている中、私はまったく逆行してるということではあります。だからというわけではないが、私はタバコ飲みの味方です。どだい、禁止するとか規制するとかっていうような方向のキャンペーンみたいなものはどこか信用できない。そう思いません?



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∞酒林∞

Author:∞酒林∞
世の中の皆様こんにちは。
私はただの夢見る酔っぱらい。
夜な夜な昼間にそば屋うなぎ屋ラーメン屋、
飲んで歌って吠えてます。
いつまで続くか酔っぱらい。
帰ってくるのか酔っぱらい。

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