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ボーダーライン

またもや1週間が過ぎてしまった。本当にあっという間だ。忙しいといえば忙しいのだが、何かそういうのとは違う気がする。急き立てられているというか。以前ならそういうのも軽くかわせていたが、最近は急き立てている何者かのほうももっと余裕がなくなって切羽詰っているようだ。

先週もいろいろな人と会った。その中のひとりが会社を辞めるというので驚いた。人気のある大手の出版社に勤めているのだが、仕事のシステムを聞くとそりゃ辞めたほうがいいかもなと思った。でも、辞める理由がネガティブだとよくないから、辞めたほうがより楽しいとか、好きなことができるとか、そういうふうな形にしたほうがいいかと。そんな話をした。

忙しいという漢字は心を亡くすとよく言われる。忙殺なら心を亡くしたうえに殺されるということになる。いきなりぶっそうな話ですみません。忙しいのは、小商いかなんかしていて年末に猫の手も借りたいくらい忙しいっていう程度がいいね。もう、貧乏ヒマなしですよ、とか。それだって一家が食える規模のことで、サボったら一日たくあんでがまんしきゃいけないくらいなら気も楽だろう。実際昔の日本の庶民なんてそんなものだった気がする。先の編集者から聞いたのだが、今、年収700、800万から1500、1600万くらいまでの人が一番キツイらしい。なぜなら、そこそこいい生活をしようとするからだ。家も買い、いい車も買い、いい服も着て、教育費、旅行その他もろもろ、それなりのクオリティを求める。いや、それなりならいいのだが、そういう人たちは年収2200、2300万くらいの人たちの生活をマネてしまうらしい。だから借金は多いが、貯蓄は思ったほど多くない。むしろ年収400万だったかな、以下の人たちは、ハナからそんな生活は諦めているから、諦めていないにしても分相応の生活をして無理をしないから、家はアパートでいいし、車も軽でいい、外食もファミレスで満足する。だから、自己満足度も充足度も先の人たちより高いという。幸福度が高いのだ。先の人たちが満足するような生活は実際は年収が2500万以上ないと無理らしい。怖いですね。けっこうな年収を貰いながら幸福度が低いとは。ひょっとしたら格差社会の犠牲者は低収入の人々ではなく、行きつくところ、高収入と低収入に挟まれた中間?層になるのかもしれない。低収入の生活に甘んじることもできず、目の前の人参を追いかけていく。時間だけがどんどん過ぎていく。うーむ。

やはりテレビの影響なのでしょうか。80年代以降、消費生活が加速度的に進んだ気がする。これこれこういう生活をしましょう、こういうライフスタイルがカッコイイというもんです、みたいなことをこれでもかこれでもかと洪水のように社会に溢れさせてきた企業、広告代理店。ドラマ、CM。人間、毎日毎日見たり聞いたりしているものには、例え何かのバイアスがかけられていたとしても不感症になるもんだ。

ニュースだってそう。私は昔から不思議だったが、何で世の中にはこんなに嫌なニュースばかりあるのだろうと。世界には悲惨で目を覆うような事件や事故がある。それはわかる。これからもある。でもそれよりも多くの、最低でも同じくらいの分量の真逆のいい話もあるだろう。昔、学校の壁新聞とかでもやりませんでした? クラスの中で順番に記者になって新聞記事を作成して壁に貼る。みんないっぱしの新聞記者きどりで取材する。でも内容は、○○ちゃんは動物が好きで毎朝うさぎの餌の交換を自分の番でもないのにお手伝いしていますとか、○○くんは、お母さんとふたり暮らしなのですが、先週お母さんが病気で仕事に行けないのでお母さんの代わりに仕事をしました。お母さんの仕事は新聞配達ですとか、そんな記事ばっかりだった気がする。ときどきは、1組の○○くんと4組の○○くんがケンカをしました的な記事もあったような気がするが、おおむねちょっとイイ話系だった。

テレビのニュースでも毎日毎日、昨日はこんないいことがありました、やはり人間はすばらしいですね、のような内容にしてしまえばひょっとしたら犯罪も減るんじゃないだろうか。逆に毎日毎日こんな殺人があった、盗みがあった、放火があったと聞かされた日にゃあ、どうなっちゃうんでしょうか。こうなってるとしかいえないが、子どもたちはどう思うだろうか。世の中は悪人ばかりで危険で恐怖に満ちているから、人を信じてはいけないし、ひとりで暗い道を歩いてはいけないくらいは思うだろう。しょうがない。実際悲惨なこともあるのだから。でも世の中には実際いいこともたくさんあるのだから、そちらのほうだけをニュースにしてほしいわけです。たまに悲惨なことがニュースになっても、へえそんなことをするヤツもいるんだと、むしろみんなが感心し、話題にし、世の中って広いんだね、まさかそんなことをするヤツがいるとは思わなかったよなあ的な会話が学校でも会社でも電車の中でもそころじゅうでされ、いやあ勉強になりましたと。そういうノリが当たり前になっている世の中なら今よりはるかにマシな気がするんだがどうだろう。不可能ですか?

実際最近のテレビ番組でも、世界的にみると不可解らしい日本人の特集が増えている。3.11の時の日本人の行動を始め、道で財布を落とした人を見かけたときや、超満員のイベントで整列入場するさまなど、私たちにはほとんど当たり前のように思える行動でもどうも外国人には不思議らしい。先に言った悲惨なニュースといいニュースの話と同じだ。欧米その他、外国には外国の過去の歴史があるのでそれから逃れることはできないが、未来は現在から始めればいいんだから私たちしだいでどうにでもなる。場合によっては、悲惨な過去もよりよい未来に繋ぐことで書き換えることができるかもしれない。

だから日々の言葉とか映像とか、現出される現実の姿、形は重要だ。寿命だって70歳だ80歳だと言うから、そういうことを子どものころから聞かされているから70歳とか80歳くらいまでしか生きられないのかもしれないじゃないか。もし産まれたときから、人間は800歳まで生きるんだけどさあ、とか聞かされて成長すれば、その子の細胞は800歳くらいにうまいこと照準を合わせて、本当に800歳まで生きるかもしれない。前回の記事で紹介した『竹内文書』なんかによれば、上古第一代の天皇、天日豊本葦牙気皇主(あめひのもとあしかびきみぬし)身光大神天皇の寿命は260億万歳だったらしいし、鵜草葺不合(うがやふきあえず)朝の初期の天皇でも100万歳を超えてる。『旧約聖書』を見ても、アダムの寿命は930年だし、ノアの方舟のノアだって950歳まで生きている。その後寿命がだんだん短くなり、アブラハムとイサクがそれぞれ175歳、180歳。モーゼは120歳となっているが、モーゼは日本で死んだとする『竹内文書』では583歳だ。『日本書記』にしたって、初代神武天皇は紀元前660年に建国し127歳まで生きたとある。第六代孝安天皇も137歳まで生きたと。

まあ、寿命の件は食べ物が大きく関わっていると個人的には思う。あと天変地異による何かしらの影響。でも、そういったことをも含めて完全に悟っちゃったというか克服したというか、覚醒した人は寿命が長いどころか、ないらしい。『ヒマラヤ聖者の生活探求』(アマゾンのリンクを貼ろうとしたのだが中古しかない。霞ヶ関書房が版元だが、絶版なのかな)を読むとほんとトンデモないですよ。これは全5巻あって実はまだ全部読んでいない。2巻まで読んで、これは一気に読もうと思いそのまま止まって早数年。このブログは酒のこととちょっと不思議なスピリチュアル系の本を紹介しながらダベろうと始めたのだが、読んでない本は紹介しないと決めていたから、これは反則ですね。でもいずれ書かざるをえないでしょう。

えーと何の話だったか、要は限界は決めないほうがいいというようなことです。少なくとも他人に決めてもらいたくはない。限界といえば、たとえば紙に任意の1点を中心にコンパスで円を描く。その描いた円の輪郭というか境界線はその円の内部と外部のどちらに所属しているのか? といったようなことを森敦が言っている。これは外部に所属しているらしい。内部に所属しているとすると、その限界に突き当たることになる。ここから先は外部だというところですね。でも外部に属するなら、内部では境界はわからないことになる。永遠にわからない。でも円を描いた側にすれば境界はあるし、その中心もある。けど内部側からでは境界もわからないから中心もわからない。また円を描く側はどこにでも自由にコンパスを突き刺して中心を決めて円を描ける。世界を作れる。でもどこでも中心にできるということはどこにも中心はないということにもなる。ましてや、円の内部にいても同じようにどこにでも円を描ける。って何の話だこれは?
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日本のルーツ

あっという間に1週間が過ぎた。前回、特急あずさの中で書いたのが土曜日で、それから韓国行ったり、食事(といっても実質飲み会)をともなう打ち合せが立て込んだりでこんなに時間が経ってしまった。時間が加速度的に速くなっているという話も信じたくなってくる。しかも2008年くらいだったかな、絶対的に時間が短くなってきていて、1日も20時間、1年も10カ月だったかになっているとかいう本を読んだことがある。今年はどうなっちゃうんでしょう。1日が12、3時間になってたりして。とにかく速い。マゴマゴしてるとやりたくないことをやってるだけで一日が終わってしまう。皆さん、くだらないことに気を取られていないでハヨしたいことをしましょう。私の場合は酒飲んでオダあげてりゃそれでいいんで、ほぼ毎日幸福を実感しております(二日酔いを除く)。

特急あずさといえば、車内販売のおねえちゃんにコーヒーを頼んだら、プラスティックのフタ付きのカップを渡された。フタに小さな吸い口が付いてて、そこから飲むらしい。チューチュー吸ったらものすごく熱かった。そしてうまくない。速攻でフタをはずしたが、コーヒーとかお茶なんてものは茶わんからススっとまわりの空気と一緒にすすって飲むからいいんであって、あんなしみったれた穴から吸ったってうまいわけがない。しかも直で飲むからヤケドするだろ。空気と一緒に吸うからうまい塩梅で冷めてまずくなる一歩手前の温度で飲むことができる。ラーメンだって蕎麦だって何だってそうだ。ラーメンのスープをストローで飲めますか? 気持ち悪い。まあ、電車が揺れてカップからコーヒーがこぼれてヤケドしないようにってことなのかもしれないが、昔はコーヒーなんかなくて、凸型のビニール容器に入ったお茶を売ってて、小さいフタがそのままカップになった。あれくらいなら、揺れてこぼれてもアチチくらいで済むだろうし、むしろその滑稽さがまわりをなごませて、大丈夫ですか? いや、大丈夫です。…ところでオタクはどちらまで? かなんかで会話が始まり、旅の道中が楽しくなるってもんだ。あのお茶まだ売ってるんだろうか。突然飲みたくなってきたが、どうしようもない。

けど、すするっていうのも日本人独特のもののようだ。欧米にはすする文化がないらしい。食事中にすすることはマナー違反だ。だからかもしれないが、蕎麦とかラーメンをすすって食べることができない。ときどき蕎麦屋で外人が蕎麦食ってるのを見ることがあるが、ちゃんと日本ふうに箸を使おうとしながら、ぎこちないのはしょうがないとして、どうもフォークのような感覚で蕎麦を持ち上げて口の中にわにゃわにゃ入れていく。ズズっとすすれないのだ。私はまだ外人(特に欧米人)が蕎麦とかラーメンをズズっとすすって食べてるのを見たことがない。すするといえば、欧米では鼻をすすることもマナー違反だ。私もパリで顰蹙を買ったことがある。たいしたこともないレストランだったが、パリは寒く、店内に入って、はあ暖ったかいと鼻をすすりながらメニューを見ていたらどうも隣の客に睨まれたらしい。らしいというのは、カミさんにそう言われたからだ。はあ?ダメなの?ってカミさんにいったらダメだと。1コ学んだわけだ。そのくせしばらくしたら、その隣のパリジェンヌだかただのネーチャンだかが思いっきり鼻かみやがった。私は聞こえよがしに、おーおーあれはいいのかよとカミさんに言ったら、鼻をかむのはOKだと。私はわけがわからなくなってワインをガブ飲みするしかなかったという非常にくだらない話がある。とにかく外人はすすることができないらしい。

どうも話がくだらない方向に行くな。この間タクシー乗って四谷駅に急いでたら、運ちゃんがさっきすごかったですよって話しかけてきた。どうしました?って聞いたら、ドアの窓外を指さして、あれです。見ると、東大病院を通り過ぎるところだった。天皇が手術入院する日だったのだ。なんでも私服刑事が50mおきに立って、車を片っ端から止めてトランクを調べてたらしい。不審な人物もバッグの中身をチェックされてたとか。私はああよかったと胸をなで下ろした。私が通りかかったら、まず職質されただろうからだ。急ぐのでって逃げようとすれば捕まってバッグを見られる。私の場合、いろんなものがバッグに入っている。いちいちここでは言わないが、ほんとにいろんなものだ。これは小学生のころからの習性だからしょうがない。だから、ちょっとこちらまで来てくださいって言われて容疑が晴れるまで足止めをくらい、待ち合わせの時間に大幅に遅れ(ただでさえ遅れてたのだ)、先方に言い訳するのはいいが、どうも警察に止められたというのもねえ。タクシーに乗ってよかった。雨も降ってたし。

その天皇の手術も無事に終わったらしいから、まずはよかった。実は昨年からどうも天皇のことが気になっていたのだ。年齢のこともあるが、今日本はいろんな意味で窮地に立たされてるからねえ。天皇といえば、記紀にならって、日本国の天皇としては神武天皇から始まるのが一般的だが、『竹内文書』(たけのうちもんじょ・たけうちもんじょ)や『上記』(うえつふみ)、『先代旧事本紀大成経』(せんだいくじほんぎだいせいきょう・さきつみよのふるごともとつふみおおいなるおしへ)なんかによるととんでもないことが書いてある。神武天皇の前にも数十代、『竹内文書』によれば、鵜草葺不合(うがやふきあえず)朝(約5万年~紀元前661年くらいか)で72代(神武天皇を入れれば73代)、その前の上古代で25代、さらに前の天神代で8代の天皇がいる。天神代なんかだと、天神第一代の天皇は元無極躰主王大御神(もとふみくらいぬしのおおみかみ、別名・天地身一大神)という名で、宇宙創生の天皇だ。第七代の天御光太陽貴王日大光日大神(あめみひかりおおひなかきおうひおおてるひおおかみ)というこれまた舌を噛みそうな絶対覚えられないような名の天皇だと、文明の始まりや暦、方位、時間の制定に絡む天皇で、別名メシヤだ。メシヤって…。

また、『先代旧事~』にある天皇容姿に関する記述には、

神武天皇(初代)
背の高さは約3メートル15センチ、胴回りは、両手を伸ばして一抱えした長さに15センチほど足した長さ。頭には9センチほどの角が二本あり、それはまるで雪のような色をしています。背中には龍のような背ビレがあり、その長さは1メートル20センチ、尾の裏側には大きな鱗が72枚あります。105歳のときに皇太子の位に就かれました。

綏靖天皇(2代)
身長は3メートル、目は黄色に光り、まるで水星のような輝きを放っています。背中に鱗があり、怒られるときにはそれが逆立ちました。その武術は人に勝るので軽々しくモノを言えませんでした。

孝霊天皇(7代)
生まれながらの御容姿は、他の方とは大きく異なり、お顔が長く龍のようですが、決して醜くはありません。その耳の後ろに白い鱗があります。胸にも9枚の鱗があり、その9つの隙間から氣を放っておられます。俊敏で、どんな遠いところにも行かれます。

崇神天皇(10代)
背の高さは1メートル90センチ、額に10センチほどの青い角が一本あります。下の顎の歯は短く丸く、下は長く鼻にまで届きました。

垂仁天皇(11代)
背の高さは1メートル80センチ、髪は右曲がりに頭を9周するように生え、頭頂部で輪のように巻いてとどまっていました。両脇の下には金と緑の羽を餅、肘にも同じような羽が根ざしておられました。

神功天皇(14代)
御容姿は非常にたおやかで美しく、その目には二つの瞳をお持ちでした。乳に9つの穴があり、力は強く建物の柱を揺るがすほどでした。

応神天皇(15代)
背の高さは2メートル90センチ、肘には弓を射るときの「鞆(とも)」という丸い当て皮のような形がありました。顔の真ん中の角は天に向かってまるで弓に矢を番えたかのようでした。胸には72本の青い毛が牛の尾のように生えていました。その長さは馬の尻尾ほどで、とても強く根ざしていたので最後まで抜け落ちることはありませんでした。

仁徳天皇(16代)
御壮年のころで、背の高さは1メートル90センチほど、目には青と黄色の光があり、耳は眉毛の上ぐらいの位置から口の下にまで垂れ下がり、足の指は長く、まるで手の指のようでした。


なんてことが書いてあるらしいからブっとぶではないか。まるで宇宙人かレプティリアンだ。

もちろん、って言っていいかどうかはわからないが、『竹内文書』も『上記』も『先代旧事本紀大成経』もアカデミズムでは偽書ということになっている。それでも研究者はあとを絶たない。古史古伝に関してはもっともっと研究がなされるべきだろうし、私自身かなり興味がある。古事記や日本書紀の成立過程はかなりあやしい部分もありそうだ。偽書とはいいながら、先の『先代旧事本紀大成経』が元ネタにしたという『先代旧事本紀』のほうは、推古天皇が聖徳太子と蘇我馬子に命じて編ませたということになっていて、神武以前の物部氏(もののべし)にまつわる歴史らしいから、日本国の成立に関わる資料としてちょっとはまともに扱われてるようだ。『竹内文書』にしても武内宿禰(たけのうちのすくね)まで遡る。漢字が伝来する前からある日本の伝統や知識、皇統の歴史などを、時の権力、大陸系の勢力から守ろうとしたことから始まるようだ。彼らに抹殺される前に日本の正当な歴史、伝統、技術を書き遺したということらしい。それが代々、竹内家に伝わった。大和朝廷時代の武内宿禰も明治時代に『竹内文書』を公開した竹内巨麿(きよまろ)も、空を飛んだり、海の上を走ったり、いわゆる神通力を修行によって会得した、役小角(えんのおづぬ)の系統の人みたいだから、そういった類の技術の方法論というかマニュアルのようなものも伝えられているのかもしれない。『日月神示』にしても王仁三郎の『伊都能売神諭』(いづのめしんゆ)にしてもすべては公開されてないし、そのテのものは簡単にディスクロージャーしてはいけない情報も抱えているのだろう。

先の天皇の容姿の記述に関してもそうだが、古代、宇宙から来た生命体によって人類の一部が創られた的な見地から、日本人ひいては世界人類を検証している本はたくさんある。浅川嘉富氏の『シリウス・プレアデス・ムーの流れ 龍蛇族直系の日本人よ! その超潜在パワーのすべてを解き放て』もそうで、先の引用はこの本にもある。本の内容に触れるとまた長くなるのでやめるが、日本人のルーツは龍蛇族ということらしい。レプティリアン。デビッド・アイクやアイクを日本に紹介した太田龍なんかに言わせると、いわゆるレプティリアンは人類を支配しているとんでもないヤツらということになるのだが…。もっと情報を取って検証しなくてはならない。金星人にしたって、金星人は全部悪と決めつけるムキから金星人にも正邪があるといった情報までいろいろあるようだし。だから個人的には、レプティリアンにしても金星人、シリウス、プレアデス、オリオン、グレイにしても、おそらく一枚岩ではないんだろうくらいのところで保留にしている。

そういえば神代文字なんかも不思議なんだよね。古代史は、エジプトだメソポアミヤだ中国だマヤだといったような個別なものじゃなく、みんな連関してるんじゃないかしら。そのへんの秘密も日本にありそうな…

楽しい霊会話

特急あずさの車中で書いている(註:途中まで)。諏訪に行くのだ。BさんとCさんと高次元情報に関する大事な会合があるからだ。ちょっと大げさかな。でもネットがすぐ繋がらなくなる。山なんですね基本的に、まわりは。山梨、長野。南アルプスのつらなりが見事だ。白くゴツく、白龍の背中のよう。それにしても酒かっくらってる初老のおじさん連中がうるさい。いや、嫌じゃないんです。むしろ酒飲んで騒いでいるくらいがいいんで、私も仲間に入りたいくらいなんだが、もうひっきりなしに喋ってる。前に黒姫山に行った帰りの電車の中でも似たようなおばさん連中と遭遇したことがあるが(やはり酒飲んでた)、その喋ること喋ること。亭主のことから、娘のこと、微妙な下ネタでぎゃっと笑うみたいな。まったく同じなんだ、このおじさんたちも。何だか感動した。男は黙ってサッポロビール(これもわからないんだろうな、今の若者は)とか、男は余計なことは喋らないとか、沈黙は金なりとか、口はわざわいのもととか、女は無口な人がいい(これは八代亜紀の「舟唄」だ)とか、あまり喋らないほうがいい的な感じがなんとなく優勢を占めてる気がするが、まあそれは一種の教訓としてあるのでしょう。確かに余計なひと言が命取りってことはありそうだし、実際あるでしょう。私もある。あ、しまった言わなきゃよかったみたいなことから、本人のためと思い、あえて苦言を呈したはいいが猛反発をくらうとか、余計に落ち込ませてしまうとか、あろうことか結局私の自画自賛的なカタチになってしまうとか、そのつもりではなくても相手がそう思うのですね。

そういえば私は昔から誤解されやすいようである。高校のとき友人の家に遊びに行って、ドアを開けたら友人のお姉さんが出てきて、あ!あなたすごく誤解されそう!って叫ばれたくらいだ。初対面の人間にいきなり言う言葉じゃないようにも思うが、あとで友人に聞いたら、お姉さんはいわゆる霊感が強い人だった。それから、ああオレは誤解されやすいんだなと自覚して、普段から誤解されないように必要以上に説明くさく、しつこく、言い訳がましい物言いになってしまったわけだ。どうしてくれるのだ。

言葉に気をつけろ、とはよくいう。たしか映画『蘇る金狼』でも松田優作が風吹ジュンにそんなことを言うシーンがある。言葉・・・気をつけたほうがいいぞ、一度口から出た言葉は二度と取り消すことはできない、みたいなことだ。なぜか印象的だったんで覚えている。流れからいっても、なんだか唐突に感じたシーンだった。なんでこの場でそんなことを言うんだろう的な。そういえば前に紹介した数学者の岡潔博士に、何か数学的な証明を学生にとうとうと喋らせて、その学生の証明の正しさを検証するといったような話しがあった。しかも逆から証明させる。正しい証明だと、逆からでもスゥーっと流れるらしい。で、証明のどこかに学生の「我」というか姑息な思案がちょっとでも入っていると、その部分の流れがふっと途切れ、おかしくなる。違和感が出る。それで岡博士はオヤと思い、やり直しさせる。私にはよくわからないが、きっと数学も音楽みたいに天から降ってくるようなものなのかもしれない。モーツァルトも音楽はすでに完成されたものとしてひらめくといっている。あとは頭にあるその曲を順番に楽譜化していけばいいだけだ。先の松田優作のセリフはなんだったのか、本人のアドリブか、監督の思惑か、いずれにしろ何か違和感があった。

自然というか人智を超えたところから降りてくるものはきっと完璧なものだろうから、人間が都合よく付け足したり引いたりできるものではないだろう。できたとしたら、すなわちそれは本物ではないのだ。これは何にでもいえることだ。雑誌の表紙にしてもデザインにしても、最初に見たときの直観や印象が大事で、たいがい最初にいいと思ったものがいいに決まっている。細かいところを見出して、自分の浅はかな知識であーせいこーせいというヤツもいるが、そういうヤツの選んだものはたいがいツマラナイ。小さいというか、そいつの小さな器を満たすだけのクダラナイものが多い。人間の思考を超えたものと繋がっているという感じ、直観が一番大事で、それだけでいいくらいだ。そこまでいくのが大変なのだが、やっぱり経験を積むしかないのだろう。

あれ、なんの話だったか。沈黙だ。三島由紀夫も、沈黙は金とはいうが、沈黙は自分を不安にさせる、といった。おしゃべりだからね、三島は。色川武大(阿佐田哲也だ、といってもまた若者は知らないか)も、人間が2人以上いて黙っているのは陰険だ、といった。私自身決してお喋りではないし、どちらかというと無口なほうだと思っているが、カミさんにいわせるとフザケルナと。特に酔っぱらっているときは最悪で、際限なく喋りまくるらしい。だからカセットテープレコダーかなんかにカミさんの声で、ウンウンとか、へーそうなんだとか、いろいろ録音しておくからそれに向かって話してくんないかなあと真剣に言われたことがある。それはともかく、やはり人はできれば話したほうがいいと思うのだがどうだろう。ひと言も喋らないで、そばにいるだけで何もかもわかり合っているような、『東京物語』の笠智衆と東山千栄子のような姿もあるが、どうもなんだか寂しい気がする。悲劇的な感じがするのは私だけだろうか。

高次元?の情報によれば、次元上昇によっていわゆる肉体を持たない意識体になるとテレパシーで会話ができるらしい。相手が考えていることがわかる。霊格のようなものがオーラの色になって現れるという話もあり、誰にでもその人の魂の品格がわかってしまう。ヨコシマなことばかり考えてたりすれば、ああこの人は霊格が低い人だなとわかる。隠すことができない。だから低い霊格の自分をさらしているとおのずから謙虚になっていく。だって隠し立てできないから、いくら見栄はって自分をエラソーに見せようとしてもバレてるから、これほど恥ずかしいこともない。霊格の高い人は黙ってても皆に敬われる。今の世界はまだゴマカシがきく。小さいころガキ大将でまわりに恐がられてたようなヤツでも、社会で揉まれるてうるちにびっくりするくらいデキた人間になってることがある。逆にいじめられてる気弱なヤツだったのが、社会的地位を得て、びっくりするくらい低次元な人間になってることもある。その他、学歴や容姿、家の環境など、昔のいろいろな劣等感がその人の品性となって現れている場合がある。霊能者までいかなくても見る人が見ればその人の霊格というか品性は見透かされるものだ。少なくとも何を考えて、何がモチーフになって、その人がそういう行動をしているのかぐらいはわかってしまう。だから、ああそのまま行けばこうなってああなって、結局本人が望んでいるようなことにはならないのになあ、それどころか真逆の結果が出るのになあ、などとわかる。

何が言いたいのかというと、高次元というものがあり、やがてそういうところに行くのであれば、思うことが瞬時に現実化するという世界なので、たいしたことのない想念のままでそこにいけば、たいしたことがない現実しか創出できないのでつまらないだろうと。ましてや極悪非道の内面のままだとしたら極悪非道の世界で生きることになる。どうやら地球は三次元的な制約が課せられてる稀有な星らしいから、いろいろ不都合もあろうが、個人的なくだらない劣等感とか、恨みとか、ひがみとか、そういうことの一時の解消のためにエネルギーを使うのではなく、本来の自分が望んでいるものに早く気づいて、それを実現することだけにエネルギーを使うほうがいいのではないかということです。困難をともなうことかもしれないが(私自身はそうは思ってない、というか人はそれを困難ではなく喜びと感じることができると思っている)、本来の自分を実現、あるいは達成する過程において体験できることのほうがはるかに喜びが大きいと思うのだが。くだらない劣等感とか恨みとか、妬みとかそねみとかを実現することが私の本当の望みだ、という人が本当にいるだろうか?

まあ私自身そういった情報に関してはいまだ研究中というと大げさだが、保留にしてることが多々ある。それでも実体験としてまわりでいろいろなことが起きていることも確かだ。いずれブログで紹介したり、出版物として企画したいと思っている。というかその最中だ。

本来は地球や人類の平和、発展のために役に立つ技術が一部の思惑により封印されてきたことだけはほぼ間違いないようだ。それも必然性があったといってしまえばその通りだろうが(『日月神示』のいう、悪もお役ぞ、とか)、問題は、それで既得権益を得てきた者たちの変革に対する抵抗と、そういう者たちに対する社会的弱者たちの現実逃避的な感情による抵抗だ。それじゃ何も進まない。暴動や戦争が関の山だ。じゃあどうするか?

文化的なこと、芸術的なことしかないと思っています。なんだよ、○○的って!と責めないでください。きっと具体的にしますから。仲間たちと。

重要性

怠け者の私にしては珍しく早い記事の更新になりそうだ。前回の記事は昨日の朝にアップしたが、書いたのはその前日の朝だった。午後、仕事に行く前にアップしようとしたのだが、全然アップできない。写真を張りつけたりしたから重いのかなあといろいろ調べて試してみたがダメ。FC2のメンテの影響というのでもなさそうだった。あきらめて深夜帰ってまた試したがやはりアップできない。翌日の朝、つまり昨日の朝試したら普通に更新できた。まあ、電子機器系には微妙なニュアンスがあるのだろう。

それでゼランドがいってたことを思い出した。なんでも会社のコンピューターとかその他電子機器、車や家電も含めて、月曜日に故障する場合が多いというのだ。なぜか。休日のあと、これからまた仕事だというときにその人がウンザリしてたり、無意識でも苦痛に感じてたり、要するにネガティブな意識を持っていると機械がその意識のエネルギーに反応しておかしくなるというのだ。人の意識がエネルギーであって、外部に影響を与えるなんてことは量子物理学が浸透してる今となってはもはや常識であることくらいわかってるが、最初読んだときは、ホントかよ、と思った。休みの間は機械も休んでいるわけで、いきなりスイッチを入れられるからスムーズに動かないこともあるだろうと。まあ、話半分くらいに捉えているが、意識の偏りというか、ゼランドの言葉でいう「重要性」というものが、ある対象に過度に与えられた場合バランスがおかしくなるというのはわかるような気がした。どういうことかというと、我々(人間に限らず何でも)含め世界はエネルギーの海のようなもので、そのエネルギーの密度、状態によって個別のものが個別のものとして存在している。人間も机も灰皿もみんなそうだ。分子や原子レベルでみてもその振動数によって形態が変わるわけで、同じ水でも振動がにぶけりゃ氷になるし高けりゃ気体になるようなものだ。で、エネルギーは波風立たない安定した状態を常に目指すので、なにか動きがあった場合、つまり安定を乱されるようなことが起きた場合、最も効率のよい方法で安定に戻ろうとする。意識もエネルギーだから、意識の状態によってはその場のエネルギーの安定を乱すことがある。すると乱されたその場のエネルギーはもとに戻ろうとして、結果として様々な現象を起こすことになる。

例えば、地面に横たわっている丸太ん棒を渡るなんてことは誰にでもできる。実際に小学生のころに誰もがやる。何の問題もない。では、同じ丸太ん棒でも下が千尋の谷底だったらどうだろうか。これはそう簡単にはいかない。風もなんにもないとしても、渡るということが意識の中で過度の重要性を帯び始め、その意識のエネルギーが場のエネルギーに擾乱を起こす。乱れるわけだ。場のエネルギーにしてみればもとの安定した状態に効率よく戻ろうとする。エネルギーは一番負担のかからない方法を選ぶものらしい。ムダを嫌う。つまりこの場合だとそいつは谷底に落ちることになる。それが一番手っ取り早い。そいつが助かるには、気を取り直して、地面の上のときのように平気で渡りきるか、丸太にしがみついて誰か別の人に助けてもらうしかない。高いところから下を覗き込んだとき、なんだか下に引っ張られるような感じがするのも同じことだ。

他にも例えば、いつもの駅に行く道を歩いていて、特にその日は急な用事があって超急いでいるとする。前におばあさんが歩いている。狭い道だ。その人はおばあさんを追い越そうとするのだが、おばあさんはなぜか追い越そうとする方向にふらっと動く。イライラしてくる。おばあさんは後ろの人に気がついてないのにまるでワザとするように道をふさいでしまう。ますますイライラしてくる。追い越そうとすることに過度に重要性を与えた結果そうなる。おばあさんにしてみれば、その場のエネルギーによって自然と動かされてしまっているだけなのだ。エネルギーの安定性を取り戻すためだけだったら、その人に有利な方向に現実を創り出してあげればいいようなものなのに、たいていはその人が不快な方向に進むというからわけがわからない。この点に関してはたしかゼランドはあまり詳しく説明してなかったように記憶しているが、私なりの解釈だと、そのほうがエネルギーにとっては効率がいいからだ。つまり、その人が癇癪を起こすような方向に持っていって、ネガティブなエネルギーを爆発させて解消しようとするわけだ。たぶんそのほうがその人に都合のいい現実を与えるより手っ取り早いのだろう。でも、そのエネルギーの策略というか都合に負けて?癇癪を起してしまうと、例えばおばあさんを邪険に扱うとか突き飛ばしてしまうとかした場合、その人にとって一日の後半がさんざんなものになるのは間違いないだろう。まあ普通は、ちょっとすみません、とかいうんだろうけど、中にはいるからね、信じられないようなジコチューが。

前の記事でもちょっと書いたが、そのエネルギーとやらも安定してればなんてことないし、先のおばあさんの例にあるような意識の乱れくらいならかわいいものだが、何かの拍子から始まったネガティブな意識の方向性というか重要性が徐々に多くの人に伝染し、大衆レベルまで拡大していくと暴動とか戦争になる可能性もあるというから恐ろしい。エネルギーにはたぶん人格のようなものはないだろうから、逆にいえばないからこそ冷徹な効率だけで作用し、溜まりきった負のエネルギーを大爆発させようとする。さらにゼランドによれば、何かのきっかけで人間が抱いてしまったネガティブな意識のエネルギーはどういうわけなのか勝手に独立し始めるようなのだ。ゼランドはそれを「振り子」と呼んだ。ちょっとしたネガティブな意識が芽生えると、その意識エネルギーは自分が生き延びるためにどんどん不快な出来事をその人に創出し始める。先の丸太ん棒にしがみついた人の場合でいうと、いきなり風が吹いてくる、雨が降ってくる、暗くなってきた、みたいなことだ。するとその人はますますネガティブなエネルギーを放出するようになる。独立したエネルギーはその人のネガティブなエネルギーを吸収しながらどんどん成長していく。それはその人からエネルギーを吸収できなくなるまで続く。つまり、その人がネガティブな現実に疲れてヘトヘトになり、もはやエネルギーを出すこともできないくらいに干からびるか、そうなる前にネガティブなエネルギーから縁を切るかまでだ。だからそんなワナに引っ掛かってはならない。ネガティブな意識は自分でなんとかできるうちに解消しておくに越したことはない。

読み違いもあるかもしれないが、大体そんなようなことをゼランドはいっている。世にいう悪霊とか悪魔とか、はたまた宇宙意識体との関連はよくわからないが、ゼランドの本もそういったことよりは、世の中を生きるための実践的な面に重きをおいているようだし、個人的には仏教でいうところの八正道とか中庸の概念に親和性を持つように感ずる。でも、ゼランドがトランサーフィンシリーズを書いたきっかけはどうも高次元情報によるものらしいし、人のエネルギーを奪うエナジーヴァンパイアについても触れていたから、あながち宇宙意識体うんぬんとも無関係ではないだろう。本国ロシアではそういったことに関する新刊も出しているのかもしれないが、たぶんまだ邦訳は出ていないと思う。ってネットで調べろよといわれそうだが、すみません無精で。自分自身、頭のキャパが狭いのか、あまり情報過多の文章が読めないからつい適当になる。それにほら、ものごとに過度に重要性を与えちゃいけないらしいしさ。

アブダクション?

つい数日前、娘が居間でパソコンに向かいながら、ふとテレビの画面に映った何かのシーンを見て、あ、ウチこの場面見たことある、パソコン打ってるとこも同じだ!と声を上げた。デジャブだ。まったく同じシーンを経験したと言い張る。まあデジャブは誰にでもある。私はこの時期、別の意味でそういうことが増えるだろうと思っているのだが、カミさんは、ただのデジャブよ、とすましていた。

私にはあまりデジャブの記憶はないが、いや、いくつかあったようにも思うが思い出せないくらいのものだ。でもひとつだけ、今でも強烈に覚えているのがある。横須賀の港に面したレストランで打ち合せをしていたのだが、暑かったから夏だろう、海に張り出したテラスのテーブルで皆で椅子に座っていて、ちょっと会話が途切れた瞬間、ものすごい感覚で懐かしさが襲ってきた。強烈なデジャブだった。これと同じことを前に体験しているという確信。一緒に行った編集プロダクションの人間以外は初対面だ。その編プロの担当にしても1、2回会っただけの人。そのときは自分でもウロたえた。何だこれは!という感じ。

デジャブの理屈としては、疲れてたり、ぼーっとしてたりして、目の前の現実に対する脳の認識が一瞬途切れ、その一瞬途切れた間、脳は認識していないにしても五感は働いているわけだから、再度認識が繋がったとき、ちょっと前の現実がどこか遠い昔の体験のような感覚として現われる、といったものだったと思う。私もデジャブはそういうことだろうと思っていたが、そのときの実体験としては、とてもそんなものじゃなく、絶対に昔体験していると感じた。本当はどうなってるのかわからないが、やはり脳のちょっとしたエラーということなのだろうか。

デジャブで思い出すのは、岡潔(おかきよし)だ。岡博士は京大出身で、もう故人だが、多変数複素函数論の三大問題とかいうなんだか私にはわからない難問を解決してしまった日本が誇る世界的数学者だ。芭蕉とか漱石とか道元などに関するエッセイを多く残しているが、博士はことあるごとに過去世が懐かしいと書いている。懐かしくてしょうがないのだと。そしてシンガポールだったかな、砂浜を歩いていたときに強烈な懐かしさに襲われる。大昔にここを通ったことがあると。それから何万年か前の日本人の大陸移動の話になるのだが、詳細は忘れた。また道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は座右の書として肌身離さず持っていたらしいが、ある日「生死去来」の四字を凝視していると、突然僧たちにかつぎ込まれる。見ると禅寺の一室で、中央に禅師が立ち、左右に僧が並んでいる。岡博士はその人が道元だと直観したという。畳を踏んで禅師に近づくと、打たれるような威厳で顔を上げられなかった。そして道元の無言の説法を受ける。やがてまた僧たちにかつぎ出され、気がつくと自分の部屋にいたが、足裏には寺の畳を踏んだ感触がありありと残っている。

これはどう考えればいいのか。ただの博士の幻覚なのか。その後、岡博士は『正法眼蔵』のどこを開いても手に取るようにわかったという。うーむ。

大体、岡博士は日本民族をこよなく熱愛していて、日本民族は30万年ほど前に他の星からやって来たと言ってるくらいの人だ。当時のマットウな人たちは、この世界的権威の博士の発言をどうとらえていたのだろう。興味深い。また博士は、「時」とは情緒だともいう。「過去」は懐かしさだ。「現在」はいっさいが明らかで動かしがたい。「未来」は期待もあるが不安もある。人間は赤ん坊から成長して、過去、現在、未来と順番に情緒がわかって「時」がわかるものだという。だから赤ん坊はときどき懐かしそうな目をして笑うのだ。4歳くらいで現在がわかり、小学校2年で未来がわかる。3歳くらいまでは過去現在未来がチャンポンになっている。時間の概念うんぬんといった難しい話はやっぱり大人になって創り出されものなのか。

私は以前から岡博士の考え方がなんとなく好きだった。数学者だからもっと論理的な思考をするものだろうと思うのだが、どうも博士は違う。直観というのも違う気がする。わかってることを思い出してるというか…。まあ数学上の論理とか直観とか、自分でもよくわかってないことがらなのであまり深入りしないほうがいい。多変数なんとかなんてのも全然わからないし、大体、幾何学と数学の違いもよくわかっていない。あれ、同じだっけ? 

でもいくら左脳偏重気味の私でも論理の怪しさについては前から気づいていた。文法的に整合性がとれていれば、黒は白い、といったことでも正しくなっちゃう。同じテーマでも、結論を正反対に持っていくことができるのが論理だ。理屈だ。だとすれば、目的が違う者同士でいくら話し合ってもラチがあかないのは当たり前だ。せめてどこかで妥協し合って着地点を探る。それが民主主義だという話もあるが、東浩紀の『一般意志2.0』ではそういった民主主主義ではなく、SNSを駆使して大衆の集合無意識を抽出し、代表者による討議の果ての結論にある種の制約をつけるという新しい視点というかシステムを提案しているが、これはこれで大変興味深い内容だった。私ごときが思い描いている今後の社会や共同体像にも貴重なヒントを与えてくれる。ってまた話がズレる。でも、東氏はクリフ・ハイの『WEB BOT』やゼランドトランサーフィンなんかについてはどう思ってんのかな。やっぱり対象外か。

いずれにしろ「論理」はなんとなく怪しい。ときもある。先の岡博士のエッセイにもあったが、寺田寅彦が師匠の夏目漱石に、先生、俳句とはどういったものですか?と質問したとき、漱石は言下に、俳句とは「時雨るるや黒木積む家の窓明かり(しぐるるや くろきつむやの まどあかり)」というようなものだといった。さすがは漱石と博士はほめているが、私もそう思う。こーだあーだといわず、さっと凡兆の句を引く。夕方かなんかで雨がしとしと降っていて、露地の奥の家に薪かなんかが積んであって、窓からぼっと明かりがもれている…家の中の団らんまで伝わってくるようではないか。俳句とはこういうものだと確かに思う。漱石はほとんど読んでいるが、また読み直してみようかと思う。芭蕉とかも。

芭蕉といえば、やはり唐木順三(からきじゅんぞう)が岡博士と似たようなことをどこかに書いていた。唐木順三も芭蕉や漱石を研究した哲学者だが、ある日机に向かっていると、芭蕉が越後あたりの日本海沿いを弟子の曽良と歩いている光景がありありと眼前に広がった。芭蕉は体調が悪いせいもあり、また精神的なものか思想的なことか、何か鬱屈しているものもあり、機嫌が悪く、冷たい雨の中をさっさと前を歩いていく。曽良は、どうして師匠が機嫌が悪いのかわからないが、機嫌が悪いことだけは確かにわかる、といった状態で、黙ってあとをついていくしかない。そんなふたりの光景がはっきりと見えたそうだ。岡博士と同じだ。深く深く研究する学者のような人は、そのような幻覚を見るものなのだろうか。それとも…。

そういえば岡潔も唐木順三も3つ違いの同世代、ふたりとも京大だし、なんとも宇宙人のような顔をしてる。とくに岡博士は。

岡潔。
ほかにジャンプして宙に浮かんでいるような有名な写真もある。とにかくなんだかすごいオッサンだ。


唐木順三


余談になるが、おとといの晩、寝ていたら久しぶりに体が抜けた。幽体離脱? 前回のブログにそんなことを書いたからまた夢でも見たのだろう。飛んでる間は気持ちがいいが、今回は覚えのない場所だった。どこか田舎の駅の近くのようで、線路があり、草の繁った空き地があり、土木機械の重機が放置されている。その黄色い機体に会社だかなんかの文字が書いてある。これはあとでなにか検証できるかもしれないと思って暗記しようとしたが、忘れてしまった。そのうち頭の後ろの左側がなにかチクチクする。痛いというほどではない。それから右側。今度は鼻の穴からなにか突っ込まれるような感覚で、ちょっと恐怖心も芽生え、フガフガ抵抗してたら、両耳にもなにか突っ込まれたところで目が覚めた。おいおい、アブダクションじゃないだろうなと思いながら、いろいろまさぐったが異常はないから大丈夫だろう。前の日に知り合いの事務所のワインパーティーでガイキチ系の話をしていたからそんな夢を見たのだろう、って子供か! 
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