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能力者たち

1週間に2回ペースの更新をしていい気になってたら、前回の記事からまた1週間経ってしまった。

やっぱり時間が速い。バカボン山田さん的に言えば、脳の使い方がヘタというかダメなのだろうが、私の場合はただのアル中ハイマーで、酔ってウカレてたら浮世はいつのまにか先に進んでましたっていう浦島太郎かリップ・ヴァン・ウィンクルってだけだな。

でも、謎の人物・白峰氏『地球人類進化論』によれば時間は昔に比べて絶対的に短くなっていて、1日は21時間、1年は10カ月くらいになっているらしいし、しかもこれは2007年に言ったことだから今じゃもっと短くなってるかもしれない。だから年寄りがあるいは中年でもいいが、子どものころは学校で過ごす時間も夏休みの期間も今よりずっと長かったというが、今じゃ子どもでさえ時間が短いと言ってるらしい。とはいえ、楽しい時間はあっと言う間に過ぎるというのは変わらないようで、これはやはり脳に関係しているようだ。

たとえば、日本が誇る超有名な大天才・政木和三氏もそう書いている。

この人は3000件以上の大発明をしてきたが、特許申請して技術は公開するが権利は放棄したという御仁だから、世界中で製品化されて人類にとんでもない貢献をしている。例えば、エレキギター、自動ドア、自動炊飯器、魚群探知機、嘘発見器、瞬間湯沸し器、などなど。あるとき日本の5大家電メーカーの重役たちがお礼を言いに来たらしいが、政木氏が権利を主張したらロイヤリティだけで5000億はくだらなかったというからお礼で済めば安いもんだっていう表現じゃきかないくらい安い。でも政木氏は、自分は生活に必要なものがあればいいし、発明には時間がかからず研究費も使わないから特許料は不要だと言った。発明は10秒くらいで思いつくらしい。秘密はやはり脳だ。以下、政木氏の著書『超脳革命』による。

脳波は、ベータ波(15~20ヘルツ/秒、肉体感覚:視聴触味嗅覚・物質的欲望・意識的な欲望・意識的な理論・低俗的な考案、発明)、アルファ波(8~14ヘルツ、精神的感覚:11ヘルツでスプーンが曲がる)、シータ波(4~7ヘルツ、生命体的感覚:偉大なる発明発見、天才的発想、霊感が生まれる)、デルタ波(1~3ヘルツ、無意識:仮死状態)ってことらしいが、政木氏の発明はほとんどシータ波のときに生まれた。しかも、シータ波は、「生命体エネルギー」が肉体の前面に出て「精神エネルギー」が発生し、人間が本来持っている潜在能力を最高度に高めるし、場合によっては政木氏のように超常現象までをも現出せしめる。例えば、前世や未来を知ったり、地球上のすべての言語を日本語として理解したり、ものを食ってたら口から真珠が出てきたり、目の前にいきなり木彫りの大黒様や観音様が出てきたり、弾いたこともないピアノの前に座っただけで名演奏をしちゃったり、そりゃもう大変なのである。しかも、第三者のいる前でだ。さらに、

ビンのフタを取ると電流が切れ、フタをすると電流が流れるようにし、それを「シンクロスコープ」という高速のブラウン管オシロスコープに接続しておき、そばにある物体がビンの中に入るように念じた。

すると、私自身の脳波がシータ波の状態になったときに、ビンのそばにあった物体が、瞬間的にビンの中に移動したのだ。私の目にはビンの横から物体がすっと中に入るように見えた。しかし、あとでシンクロスコープで調べてみると、フタを取って物体をビンの中に入れ、またフタを閉めていることが判明したのだ。しかもその時間は数十万分の一秒であった。

普通の状態でフタを取り、物を入れて再びフタをすると、どんなに早くても一〇秒は必要だったが、それが五〇万分の一秒程度で行われていたのだ。つまり、脳波がシータ波になると時間が著しく短縮されるのである。一〇秒が五〇万分の一秒ということは、一年に直せば一〇〇分の一秒が一年に相当するのだ。これは私が発明品を生み出すときの状態と同じである。

脳波がシータ波になると、超常現象が起こることがわかったのだ。


それってサイコキネシスじゃねえの!と思うが、自分でフタを開けてビンの中に入れてたって言うんだからやっぱり違うんだろう。どちらかというと、人が見ている前で、物を消しますって言って、アッ!とあらぬ方向を指差してその人がそっち向いてる間にパッと物を隠すというのに近い。ただそれを50万分の1秒でやる。恐るべしシータ波。先の楽しいことはあっと言う間に過ぎるっても、おそらくアルファ波くらいのリラクス度だろうし、それでも時間が短く感じらるわけだから、シータ波だったら2、3年遊んでも実際は2、30秒ということだからそんないいことはないんだが、簡単にはシータ波にはなれないようだ。同書では、そのための呼吸法や政木氏が開発した「アルファシータ」という脳波の同調機などの紹介もしている。

シータ波になればスプーン曲げくらいなら簡単にできるという。とくに子どもなんかはまだ先入観がないから、スプーンは曲がるもんだよ、筋肉じゃなくて精神力で曲げるものだから、自分の生命体に曲げてくださいとお願いしてごらん、というとホイホイ曲げるという。中には手にぐにゃぐにゃ巻きつけちゃうツワモノもいるらしい。

いかに先入観が潜在能力を縛るかってことだ。政木氏でさえ、ある女性が古代の英語で話しかけてきたとき途中で、あれ、私は英語なんかわからないはずだが、と思った瞬間それまで理解できていた言葉がさっぱりわからなくなったという。余計なことを考えると自分で自分の能力を封じちゃう。本当に理性ってヤツはほっとくとすぐデカイツラをする。狂気とは理性を失うことじゃなくて理性以外のものを失うことだ、ってチェスタトンも言ってるじゃん。それはマジで怖いわな。理性はコワイ。

とにかく、理性、論理、科学で説明できないことなんて山ほどあるんだからというよりほとんどのことがわかってない。最新の科学的学説も現時点での仮設に過ぎない。量子論にしたって、粒子だ波だひも(ストリングス)だときて、膜(メンブレーン)になっちゃった。11次元だって、今度は。どこまで行くんでしょうか。今後も必ずや最新の学説と齟齬をきたす実験が誰かによって行なわれ、整合性をはかるために学説の修正を余儀なくされ、さらに新しい形態を取らざるを得ないことになる。膜の次はなんだろう。順番からいって何かスカスカのジェル状のキューブみたいなもんでしょうか。キリがない。あれと同じ。物は絶対に地面に落ちないってヤツ。物が地面に落ちるためには、まず地面と物の間の距離の半分の距離を落ちなきゃいけない。そしてさらに半分落ちる。さらに半分、さらに半分…永遠に落ちないことになる。でも落としたコロッケは地面に落ちるし、また拾って食う。でも実際はコロッケは地面に落ちておらず、落ちてる現実を創造している云々といった話はまた今度にしましょう。

神だってそう。人間は宇宙人が創ってもいいけど、その宇宙人は誰が創ったの?とか、唯一無二の創造主の正体は?ってのもキリがないし、宇宙の果てを覗く望遠鏡を創っても、結局自分の背中を見ることになるって話もそう。そこに行く前にまだ人類にはいろいろ楽しめるというかやらなきゃならないことがあるんじゃないか。潜在能力を使って。

なんの話だったかまた飛びそうだから、もうひとつの記録を。

知る人ぞ知る霊能者に油井真砂(ゆいまさご)がいる。明治20年に生まれで、女医から禅尼になり、昭和34年に正座のまま遷化したとんでもない女史だ。その能力は、弟の正智氏が残した著書『わが見神記』に詳しいが、かの今東光も「現実にいる魔女」という文章で紹介している。

この話は、現代人が読むと、でたらめしごくのばかばかしい話として受けとりますが、現実にこんなことも出来る人は居るんですな。わたしはちっともふしぎとは思わない。たとえばいまはなくなっていると思いますが、油井真砂という女性がいました。この油井女史は、戦前の枢密顧問官平沼騏一郎さんとか、いろいろな人にたいへんかわいがられ、東京の大久保のお寺にいました。わたしなんかも、よくそこへ行って座禅をしたり、仏教の話を聞きに行ったことがある。

この油井さんという人は、一種の魔女で、霊力を持っていた。透視なんかもするんですな。そのかわり、この人は、人間の低劣な物質的欲望をみたすようなことは決してやらなかった。たとえば「金山を掘り当てようと思うんですが、どうしても出ない。何かいい金脈はないですか」「見えていますよ」と言うけれども教えませんよ。金をどれだけ積んでも「だめ」という。そうさせないために、平沼さんだのいろいろな人が、金を出して生活の保障をしていました。悪事に使われないように…。

ある時、房州の保田の、もう焼けましたが、ある寺へみんなで合宿に行ったことがある。そのうち、保田の町の人なども遊びにくるようになったが、あるときたまたま、霊力の話をしたところ「そんな迷信があるか」と言う。油井さんは「あなた方は言ってもわからないだろうから、ひとつ実験してみましょう」ということで、本堂にちゃんとすわって、ジッと祈念したのち、手ぬぐいを何本もよじって、その片方を自分は指二本で持つ。そして反対のはしを漁師の若い、いかにも力の強そうな男が思いきり引っぱった。

ところが、手ぬぐいはビクとも動かない。そこでこんどは、二、三人でウンウン言いながら引っぱってみたが、それでも手ぬぐいを取れない。みな青くなっちゃった。それも、油井さんはうんと気ばっているんじゃない。すわって、にっこり笑いながら二本の指で持っているだけなんだ。「あなた方は、大の男のくせに、なによ、わたしが、あなた方をドンと突いたら、穴があくわよ」ほんとにそんな気がするんだな。それ以来、漁師たちは、はいつくばって彼女の護衛をしていたよ。

(略)彼女は全然泳げないんだ。波がサッときて足に当ると、キャッーと言って気味わるがる。それでみんなで、さすがの油井さんも海へ突き落されたらだめだろうというので、船で沖へ連れて行き、海水着を着ている彼女を、みんなでかつぎ上げ海へほうりこんだ。ところが沈まないんだよ。すまして波の上にすわっている。これにはみんな一言もなかった。この話はほんとにあったことです。


波の上にあぐらかくなんざあいいじゃないですか。あぐらじゃないか。こういった能力者だからいろいろと相談者もやってくるが、なんせ当時まだ32歳。こんなヤツも来る。先の弟さんの『わが見神記』から抜粋する。

(略)妹の葉子に案内されて、真砂の居る仏間に通されて来た、四十五六の髭をたくわえた紳士がありました。
「私は代議士の某です」
と言い乍らすわりました。真砂はじいっとその様子を見て居りましたが、
「あなたは大変不純なお気持ちでいらっしゃいましたね」
「ほほう、私がなぜ不純な気持ちですか」
いかにも揶揄する様にいいました。
「そうですね。でもそんな気持ちを起す前に、結末をつけなければならない事が、沢山ありますのに」
「ほう、どんな事かね」
「では申し上げましょうか、群馬県某郡某村何番地の何某氏から借りた五万円はどうなさる御心算です」
「どうしてそんなこと知っているんですか」
「それから赤坂の何番地に囲っている何子さんは妊娠八ケ月ですよ。どうなさるおつもり」
「どうしてそんな事まで」
と真青になって震え出しました。
「あんた、どうしてそんなこと、何処で調べたんです?」
「調べるわけないでしょう。あなたが今日来ることも知りませんもの」
「ではどうして解ったんでしょう」
「あなたの心の中に有るじゃありませんか」
「私の心の中に?」
「そうです。読心術と言いましてね」
「読心術? ほんとにそんな事が出来るんですか」
「解らない人ですね。これ程はっきりしているのに。それともうそだとおっしゃるんですか」
「いやもう」
「もっと色々申し上げましょうか」
「いやもう沢山です。では私はこれで失礼を」
と言い乍ら、ペコリと頭を下げて、ほうほうの態で逃げる様に出てゆきました。


まだまだあるが、長くなるのであとひとつだけ。

(略)初冬のある日の出来事でした。住職が、池の中に差し出た松の枝が、水面についており、放っておくと枯れる恐れがありましたので、添え木をしようとしましたが手が届きません。梯子を池に渡そうしましたが届きません。これは困ったと思案していますと、本堂の濡縁から見ていた真砂が下りて来て、
「どうするの。松の枝を上にあげて水にひたらない様に、この棒で支えればいいでしょう」
「そうです。でも届かないんですよ」
「わけないさ、そんなこと」
とその棒を持って池の上を、丁度氷の上を歩く様に、下駄のままでちょこちょこと行って、枝を上げて棒を入れ、
「これでいいでしょう」
と言って元の位置にもどりました。
「どうもすみません、いいあんばいになりました」
と話し合いました。その時は何の不思議さも感じませんでしたが、後で考えてみると何と不思議なことだろう、地球には引力がある。物理的にどう考えても、水の上を下駄で歩ける訳がない。霊力によって肉体を空に浮かせることの出来る現象をまざまざ見ました。初台(酒林註:地名ね)時代は時々魂を冷やす思いをしましたが、久々で肌に粟を生じた次第でした。


うーむ。姉の伝記を書いたこの正智氏も後年僧籍に入るのだが、それでも当時は物理学的常識にとらわれていたようだといってもこれは無理もない。誰だって驚く。

それにつけても先の書籍での真砂女史の人品たるや、よくぞ日本女性に生れかしと言いたくなるのだが、その苦労も想像を絶するものだ。こういった記録は貴重だね。あのベアード・スポールディングの『ヒマラヤ聖者の生活探求』に勝るとも劣らないと言っても過言じゃないだろう。

要するに単なるオカルト話と片付けられてきたことの中にも、今後の人類にとって大切なヒントになることがたくさん隠されているようだということ。隠されたっていうのは違うか。でもある種の智識は実際に隠蔽されてきたし、我々のほうも一部の人を除いてまともに取り扱ってこなかった経緯もある。隠蔽されたのは、支配者側の策略だってのもあるが、高次元存在が人類にはまだ早いって取り上げたって話もあるが、また長くなる。次回、続きっぽいのを書きますが、それにしてもバカボン山田さんのブログのこの記事などには、今後の人類が歩むべき道筋への可能性のひとつが確実に秘められている。また、anさんを中心としたこちらのサイドブログなども、ライトな形式をとりながら同じ方向を模索しているんだと思う。

ちょっとくたびれたな。今回も堅かったかしら。

そういえば、先週は大阪のイベントに行ったのだが、空いた時間で仁徳天皇陵を参拝した。あのお堀向こうの鳥居から先にはなかなか不思議な空気が漂っていたな。背景の小山に現実感がないというか。帰りにお堀端をカミさんと歩いていたのだが、水辺に真っ白な見事なサギがいた。ほう、きれいだなと見ていると、その先でカメが水から突き出た棒っくいに乗って首を伸ばしていた。カミさんが、まあ鶴に亀、なんて縁起がいいんでしょ!と調子こくから、だからサギだってと言うと、上空でカアッとひと鳴きしてカラスが飛んでったはいいが、ボチャッとウンコを落として行きやがった。カミさん大喜びで、おまけに運までついちゃった!

まったくオンナってやつぁ…
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予言3.5

本や映画や人の言葉で気づかされたアフォリズムめいたものでもいいから毎日更新したほうがいいかも、などと出来もしないことはあまり言わないほうがいいね。今の世の中ボケーっとしている3、4日はすぐに経っちまう。

前にも書いたが、そもそもこのブログは酒にちなんだ話やスピリチュアルなことを飲み屋のバカ話程度に共有したいと始めたのだった。そう、酒場でマスターとくっちゃべってる隣に座ったおっさんとか、少し離れた席で意外にもスピリチュアル話で盛り上がってる若者グループとかとに近づいて、実は僕なんかもですねえ、かなんか言いながら交わって面白おかしく酒が飲めればいいみたいなノリ。実際酒場ではそんなです。

ここのところゼランドに話が集中したキライがあるが、「予言」に関してのことだったからだし、また「予言」に関してはゼランドが言うところのもの以上に腑に落ちるものが私の知る範囲ではなかったからだ。それでも、前回の記事はわかりにくいというか全然まとまってないし、ちょっと補足する。っても余計わかりにくくなるかなあ。

ゼランドが言ってることは、極端に言えば、未来は、いや現在も過去も自分の好きなように変えられるということなんだが、これはスゴイことだ。自分の人生は自分の思いのままになるというんだから、もしそうなら予言もへったくれもなくなる。自分で好きなように現実なり未来を創造すればいい。でも重要なのは、人は自分の世界の層しか創造できないということだ。これはパラレルワールドというのとは違う。人はみなバリアント(起こり得るあらゆる事象の構成要素)が現実化した同じ世界に住んでいるからだ。

しかし、一人一人にとってバリアントは自分だけのものなのだ。例えば運命においても、富める者と貧しい者、成功する者と失敗する者、幸せな者と不幸せな者というように、表面上からも明らかな違いがある。こうした人々は皆同じ世界に住んでいるが、各人にはそれぞれ自分の世界がある。そう考えると、貧しい者が暮らす街区と富める者が暮らす街区とがなぜ存在するのかということも分かる。(略)贅を凝らした作りの高級車の窓から世界を眺める者もいれば、ゴミ箱の中から世界を眺める者もいる。祝日で心はずむ者もいれば、自分の問題に心を悩ます者もいる。快活そうな若者たちのグループを見かける者もいれば、傍若無人にふるまう不良たちの一団を目にする者もいる。皆が同じものを見ているのに、目に映る光景はカラー映画と白黒画像のように異なる。各人がバリアント空間における自分のセクターに調整されているため、それぞれが自分の世界に住んでいる。これらの世界はすべてが互いに積み重なって層となり、私たちが住む空間を形成している。

だから、

ある層を別の層と分離することはできない。各人は自分の思考によって自分の現実を形作っている。そして同時に、この現実は取り巻いている世界と交差したり、相互に作用し合ったりしている。

ひとつの生物も存在しない地球を想像していただきたい。風が吹き、雨が降り、火山が噴火し、河が流れ、つまり世界が存在している。さて、ここで人間が生まれ、これらすべてを観察し始めた。この人間の思考エネルギーは、バリアント空間の特定のセクターでものごとを現実化させ始める。つまり、この世界においてその人間の人生を作り出すのだ。この人の人生はこの世界の新しい層である。別の人間が生まれると、もう一つの層が現れる。人が死ぬと、層は消える。あるいは死の向こう側で形を変えるのかも知れない。

(略)世界に生物がまったく存在しないと仮定してみよう。その場合、どのようなエネルギーが生物のいない空間でものごとを現実化するのだろうか。これに関しては、推測することしかできない。最後の生き物が死んだら、世界も消えてしまうのだろうか。もしその世界に誰もいなかったら、世界が存在することを誰が証明できるのだろう。もし誰もいなかったら、(私たちが理解するところの)世界が存在していて、それはこうだったと語ることすらまったくあり得ない。これでもう十分だろう。この先にあるさらに込み入った迷路に入るのはやめておこう。

ゼランドは、トランサーフィンは、自分の人生を自分の望む通りに進めていくための数ある実践的な方法のうちのひとつにしか過ぎないという。だからトランサーフィン自体にも過度の重要性を与えてはいけないともいう。この「重要性」という言葉にも解説が必要なのだが、過去記事にちょっと書いたことがあるので本を持ってない人は見てみてください。

何が言いたいのかというと、もしゼランドが言うように現実を創造できるなら、いい予言ならともかく、破壊的な予言は回避できるというより無視できるのではないか。ということなのだが同時に、人は自分の世界しか創造できないのはその通りだが、他の人の層とも絡まっているので話はそう簡単じゃないゾということだ。前回も同じようなことを書いたのだが、不用意に「罪悪感」なんていう言葉を使ったので余計わかりにくくなったかもしれないから、ここで「罪悪感」についてもちょっと触れておく。

罪悪感とは純粋な形の過剰ポテンシャルである。自然界では善悪の概念が存在しない。良いふるまいも悪いふるまいも、平衡力にとっては等価値である。過剰ポテンシャルが起こると、いずれにせよ乱されたバランスの回復が図られる。あなたが悪い行いをし、それを認識し、罪悪感をいだく(我に罰を与えよ)と、ポテンシャルが作られる。あなたが良い行いをし、それを認識し、誇りを感じる(我に褒美を与えよ)と、やはりポテンシャルが作られる。平衡力は、何に対して罰するのか、または報いるのか、ということについては、まったく関知しない。平衡力は、エネルギー場において発生した異質なものを取り除こうとするだけなのだ。

罪悪感に対する報復は、常に何らかの形の罰である。もし罪悪感が生まれなかったら、その後に罰が続かないこともあり得る。残念ながら、良い行いを誇る感情も、褒美ではなくて、罰をもたらす。なぜなら、平衡力にとっては、良い行いを誇るという過剰ポテンシャルを解消することが必要だからである。もし褒美をもたらしたら、かえってその感情をあおるだけになってしまう。

このへんも、「平衡力」とか「過剰ポテンシャル」といった特殊な言葉が出てくるが、先の前記事を参考にしてください。要するに、この世はエネルギーなので、自然のエネルギーは平穏な状態がつまり常態だから、人間の思考エネルギーによって何かに過剰に意義(重要性)が与えられると、エネルギー場に擾乱が起き、それをもとに戻そうとする動きが働くということだ。

ところで、「厚かましさは第二の幸せ」という言い習わしは、なぜ存在するのだろうか? 通常、平衡力は良心の呵責に苦しんでいない人々に影響を与えたりはしない。その一方で、神はろくでなしたちを罰すればいいと思うし、正義が勝利しなくてはならず、悪は罰せられるべきだと思う。しかしながら、それがいかに痛ましくとも、自然にとって正義感というものは存在しない。逆に、生来の罪悪感を持つ真面目な人々には、常にありとあらゆる新たな災厄が襲いかかるのに対し、良心のかけらもない恥知らずな悪党たちは、しばしば罰せられずに済むばかりか、成功までも手に入れることがある。

罪悪感は必ず罰を受けるシナリオを用意する。それも、あなたの意識とは無関係に。このシナリオに従って、潜在意識があなたを、報復を受ける方向へと導く。よくても切り傷や軽い打撲、または何らかの問題が発生する。悪くすると、事故に遭って重い後遺症残るかも知れない。これが罪悪感の仕業である。罪悪感の中身は破壊することだけで、有益なことや建設的なことは何もない。良心の呵責で苦しんではいけない。良心の呵責は何の解決にもならない。それよりも、後になって罪悪感を覚えないで済むようにふるまう方がよい。しかし、もし罪悪感が生じてしまったら。無駄に苦しむのは意味がなく、そうすることはだれにとっても好転にはつながらない。

まあ、異論もあるかもしれないが、罪悪感とはできるかぎり縁を切ったほうがよさそうだ。これは「原罪」といった概念の検討にもつながることだが、話がズレる。

罪悪感を持っている人々は、罪悪感を持っていない人々の意志に常に従う。もし私が何らかのことで罪を犯しているかも知れないとの認識を潜在的にいだくとすると、私は無意識のうちに罰を受ける準備をしており、そのことはとりもなおさず、服従への用意があるということを意味する。

また、

(略)勇敢な人々は良心の呵責に苦しむことがないだけでなく、どんな些細な罪悪感に苛まれることもない。彼らは何も恐れない。なぜなら、彼らの内なる裁判官は、彼らのすることが正しいと太鼓判を押してくれるからだ。これとは反対に、臆病な犠牲者はまったく異なる立場にあることが特徴的だ。「私の行為が正しいかどうか自信がない。私は非難されても仕方ないし、誰でも私を罰することができる」。こうした罪悪感は、それがどんなに弱いものであろうとも、また、それがどれほどの深みに潜んでいても、罰を受けるために潜在意識の扉を開ける。もし私が罪悪感を覚えるのならば、略奪者やならず者に私を襲撃する権利があることを潜在的に同意していることになり、それがために私は恐怖する。

それでも人は罪悪感を持ってしまうのだが、ゼランドはそれを解消するには、許しを請うこと、自分の過ちを認めること、罪の許しを神に祈ること、懺悔することってんだが、これもまた長くなるのではぶく。ひとつだけ言うと、でもこの許しを請うということに関しては、それを利用して何度もテメエ勝手に人を服従させようとするヤカラの挑発にだけはのらないようにしなければならない。許しを請う権利は一度したらそれでおしまい、なのだ。

また話をややこしくしてるような気もするが、予言についてだった。

つまり、前回と同じことなのだが、大天変地異とかこの世の終わり的な予言は、決定したこととしてあるのではないということだ。人類がこの世に生きとし生けるものとの共存共栄を無視して、このまま傲慢な人間至上主義を続けたならば、そりゃエネルギーのバランスにおいても地球なり宇宙はなにかしらの大掃除をせざるを得なくなるのは当たり前だ。また、そうしたことに直接関わってる実感がないとしても人類の相当部分が潜在意識でそうしたことに関しての「罪悪感」を持っていたとしたら、ゼランド式に言えばそれに見合う「罰」をくらうこともあり得る。

だとすれば、そうした破壊的な未来を招来せずに済ます方法はおのずと決まってくる。早いとこ傲慢な人間至上主義的な流れを変えるか、これまでの行いの許しを一度だけ請い、罪悪感を感ぜずとも済むような方向、やはり傲慢な人間至上主義的なものではない方向への行動をとるしかない。『日月神示』の、早く改心せよ、はよ身魂を磨いてくれよ、ということだ。だって時間がないんだから。もうそこまで来てしまった。間に合わなかったら、もうしょうがない。大掃除されて残された人々で新しい世の中ができていく。それはおそらく決まっている。と思う。

天変地異は今までも起きたしこれからも起きるだろうから今に始まったことではないが、このまま行けば今回のはデカそうではある。でも重ね重ね言うけど、決定したことではないんじゃないか。だから、それぞれができることをやればいい。これまでのエネルギー調達方法がとんでもなく歪んできたのなら、フリーエネルギーを早いこと開発して普及させるとか、政治、経済、その他、すべて生きとし生けるものの生活基盤を見直すとか、そういったことにそれぞれがそれぞれの範囲内で意識的に関わっていく。

実際ここ数年というかとくに昨年からは急激にそうした人々が増えているのは間違いない。フリーエネルギーに限らず新しい物理学から言霊の真実まで必死に追求しているバカボン山田さんやchachaiさんたちグループや、そのうち独立国(国というのももはや古いか)まで築くんじゃないかといった勢いの玉ちゃんグループなど、ほかにも私が知らないだけで今の日本には相当数の人々が動いている。だから、なんとかなると私は・・・

過去、起きてしまったことはしょうがないし、また起きたからこそ変えられることもあるし、少なくともまだ起きていないこと、それも破滅的なことには焦点は合わせたくないよね。破壊的な予言はいろいろあるが、私の知る限り、その先の未来は明るいというものがほとんどだ。だったら基本的に未来は明るいと言えるわけで、問題はその過程だ。

誰だっけ、ソロモン王か、彼はどんなとんでもない状況でも泰然自若としていたが、その度に金だか銀の腕輪をチラ見していた。ある者がなんかの機会にそれを見たら、そこには、これも通り過ぎるさ、と書いてあったらしい。

結局、何が言いたいんだかわからなくなってきたが、とりあえず「予言」に関することはこれで切り上げます。またしてもだらだらと書きなぐってしまったが、読んでくれた人にはありがとう。どだい私程度の頭じゃゼランドの助けを借りてもテーマがデカすぎて手に負えんな。

でも、去年、あるスピリチュアリストにも言われたように、たしかにもろもろもう時間がないらしいんで、私も遠慮せずに?今後はガイキチ話を書きますわ。テーマというか内容ってことで言うと、誰でもイエスのようなことができるってことなんだけど、やっぱりヤバイかしら?

予言3

去る10日の日曜に韓国から帰ってきたには帰ってきたがヘロヘロで記事は書けず。私にはめずらしく二日酔いではなく、なんというか二日満腹で、頭がまわらない。なんで韓国人はあんなに食うんだ。

初日、向こうのおエライさんたちとの打ち合わせを終えると恒例の会食となるが、さんざん飲み食いしたあとにうまいチキン屋があるからとぞろぞろと移動。もう食いたくないと思いつつも礼を失すると間に入ってる人にも悪いから無理やり食ってビールで流し込む。たしかにうまいんだがさすがにtoo much。あげくに大量のチキンセットのオミヤゲを持たされ、また飲みに行くんだか食いに行くんだかになったとき思いがけず恵みの雨が。明日も早いからとかなんとかうまく切り抜けてホテルへ帰るももったいないんでまたチキンとビール。翌朝、まったく腹は減ってないが約束なので朝飯を食いながら打ち合わせ。昼の約束にはさすがに腹がいっぱいなので相手にわびながら告げると、そうですか、じゃあ軽くユッケでもと言ってくれたので、まあユッケにビールならちょうどいいというかうれしいくらいだと喜んでたら、いきなりユッケのほかにとんでもなくぶ厚いステーキ肉を2枚も注文された。おまけにここの水キムチスープは相当うまいということでそれも試すことになったが、韓国人の相手が辛い!辛い!とヒーヒー言うくらい辛く、そしてうまく、私は涙目になりながらもこれはなにかのカルマ落としでもしてるに違いないとひとり思いにふけっていた。

その後、ホンデのコミック専門店やソウル市外の出版村パジャシティなどに案内されたあと、実は近くにうまいうなぎ屋があると。ええっー!さっき食ったばかりじゃんと喉もとまで出かかるが…まあいいか、こんなことをえんえんと書いててもしょうがないやね。

その後、うなぎを食って、飲むと精力がつきすぎてションベンをするとバケツに穴があく(韓国の田舎は店の外に小便用に木の樽を置いておくらしい)といわれる桑の実のワインを1本飲み、夜は夜でまた食って飲み、すっかり思考能力を奪われてバカにった私はホテルに帰ってまた食って飲み、翌朝空港で朝飯を食い、おまけにヤケクソ気味に機内食まで食い、家に帰ってカミさんの手料理で3杯メシを食うという餓鬼道に陥ったのでした。ホント、しまいにゃ皿まで食ったろかと思ったね。

ゼランドです。前回の記事では、ともかく魂と理性が一致したことは現実化するという話だった。

だから悪い予感はよく当たるのだ。

起きてほしくないことは起きる可能性が高い。なぜなら、人は本当に欲していることはよくわかっていないが、欲していないことはよくわかっているからだ。人は欲していないことで魂と理性が一致することが多い。するとそれは現実化する。起こり得る事象のパターンや流れを無限に格納しているエネルギー場(ゼランドはそれをバリアントの空間と呼ぶ)は、魂と理性が一致さえすればそれがその人にとって良かろうが悪かろうが関係なくそのパターンなり流れを現象化させる。エネルギーに善も悪もない。

…私のヘタな説明をしていると「予言」について触れるところまでいくのにまた時間がかかりそうだから、さっそくゼランドの言葉を紹介する。

(略)人が梶棒を自分の手で握ると、その人の人生は状況に翻弄されるのをやめる。小舟を予め決められた「運命」から好きな方向へと向けることができるようになる。すべてはとても簡単なことだ。人生は河のようなものである。もしあなたが自分で漕ぎ進むと、方向を選ぶことが可能となり、もしただ流れに任せると、成り行き任せの小流を進まなければならない。あなたがカルマを求めれば、カルマを受け取る。あなたの人生が何らかの避けがたい状況や前世の過ちによるものだと思うと、あなたはそう思うことでそれにふさわしいバリアントを現実化させる。あなたの意志のままなのだ。なぜなら、あなたは神の子だからだ。では、もしあなたが支配者であることを望むなら、それもあなたの思いのままとなる。(略)

絶対的にすべてが含まれるという想像もつかないバリアントの空間の存在を信じるよりも、運命は何らかの最高の力によって定められていて、「計算」と予見が可能だと信じるほうが気が楽である。いずれにしても、人々にとっては未来が見通せないなかで暮らすのは居心地が悪いため、未来に関する何らかの暗示でよいからもらおうとして、占星術師、予言者、占い師などのところへ馳せ参じる。そして、そこでもまた根本的な選択という問題が立ちはだかる。自分の意図とは何なのか。自分を待ち受けているものを知ることか、それとも、欲することの実現か。

ここでゼランドの言うところの「意図」という言葉には特別の意味があるので解釈というかもうちょっと説明が必要なのだろうが、まあ今は予言に関して触れたいだけなので先に進む。

(略)未来を予言したり「見積もったり」する能力を出したりする能力を備えた誰かがいるのだろうか。そのような人間は間違いなく存在している。加えて、そうしたことは、バリアントの空間がまさしく存在するからこそ可能となってくるのだ。そうでなければ、千里眼の持ち主たちは、過去や未来の断片をどこから持ってくるとうのか。

ありとあらゆる占いやホロスコープに対する接し方は一種独特で、それは信じる気持ちと信じない気持ちが拮抗している状態にある。人は、一方では、そうしたものにすっかり頼り切る傾向にはないのだが、他方では、潜在意識のどこか深い部分で、「ひょっとして…だったらどうしよう?」という思いが居座る。占いに関する重要性は、「起こるかもしれないし、起こらないかもしれない」というように最小限である。これは、遊び半分まじめ半分に行われるある種のゲームである。その結果、魂と理性の密かな一致というものが起こる。そのような条件下では、束の間ではあるが明瞭な形(イメージ)が作り出され、それを世界の鏡は喜んで現実化させるのだ。本人自身が、自分の与(あずか)り知らないところで予言されたことを現実化させている。(略)

そして、「予言」に関してとりあえずの結論めいた部分を紹介する。

(略)予言者を必要とするのは、無意識に見る夢のような人生を選択した人々と、圧倒的多数を形成する側に常にいることを選択した人々だけだ。もしあなたが自分の人生を、コントロール可能な、意識して見る夢に変えるつもりならば、鏡職人たちからの手助けは、あなたにとってまったく無意味となる。
 占星術師、夢占い師、予言者を鏡職人と呼んでもよいだろう。なにしろ彼らは、たわいもない予言をしてくれるだけでなく、あなたが眺めなければならなくなるであろう自分の運命の代替品(鏡の一部)を与えてくれるのだ。予言が鏡の一部とならないわけがない。予言をあなたがまじめに受け入れるかどうかはどうでもよいことだ。あなたはそれを手に取ったのだから、それは潜在意識に居座り続け、その後のあなたの運命をプログラミングする。まさかあなたは、たとえお金に絡むことでないにせよ、未来のかけらを受け取ることが本当にできるなどと思っているのだろうか。運命の影響を受けずにそれを覗き込むことはできない。そんな商品の代価は常に同じである。その商品を手にしたあなたは、好むと好まざるとにかかわらず、それを自分の人生の一部分にせざるを得ない、ということだ。


とはいえ、予言の利用法もあるという。がしかし、どのような予言であるかにもよるようだ…

(略)もし自分のリアリティの支配者になりたいという願望がなければ、鏡職人たちからの手助けをうまく利用することはできる。これも選択であり、生存のための方法なのである。むしろ、運命の軌道に沿って安全に進む方法とも言える。この場合、予言は、起こり得る不快な出来事を未然に防いだり、成功への希望をいだかせてくれることのできるサインの役目を果たすことができる。こうしたことに関しては、鏡職人たちは役に立つことをしてくれる。けれども、鏡職人なら誰でも、というわけではない。彼らのなかで最も有害なのは、地球規模の出来事の予言者たちだ。大災害や「この世の終わり」が近いと予言することによって、多くの人々の思考を破壊的な方向へと向ける。言い換えると、集団的意識をプログラミングするのである。そうなると、ただでは済まなくなる。

まあ、個人的な解釈で大ざっぱに言えば、自分にとっていい予言は取り込み、悪い予言は取り込まずに無関心な距離を保ちながら、一応備えるって感じだ。だって、そんなたいそうな予言とまでいかなくても、日々おっかないニュースばかり流れてくるんだから、いちいち取り込んでたらカラダがもたない。前に記事にも書いたが、なんでおっかないニュースばかり流すんだろうか。そりゃそんなことも起きただろうが、それと同じか、あるいはそれ以上の心暖まる希望に満ちたとんでもなく楽しく平和・共存の可能性が溢れたニュースもあると思うんだけど。ない? だったらみんなで発信しましょうか。ニュースのネタが見つからなけりゃ自分たちで作っちゃいましょうか。

神がもしいるなら、なぜ神はこんなにも残酷で非道なことが世界で起きることを許すのだろうか、とか、それはそれできっと大きな意味があることなのだ、とかよりは、私はやはり神は真っ白な紙と鉛筆を用意しただけで、そこにどんな世界を描くのかは人間にまかせたのだと思うほうが納得できる。

さきのゼランドの言葉にもあるが、地球規模の大災害に関する予言というのはまさに今あちこちにあるわけで、これはゼランドふうに言えば、人類がそういった災害に遭遇するバリアントの近くにいるってことにもなる。それは人類の無意識の何%とかはわからないが、金持ちとか貧乏人、先進国や開発国にかかわらず、それなりの%部分がそういった災害を不可避なものとしてとらえていて、今の世界のシステムというかこのままの状態で行けばやがては大きなしっぺ返しを食うんじゃないかとどこかで思ってるということだ。だから人類の無意識のその部分が変わらなければ、あるいは%がこのまま増えていけば、そういったことに遭遇する確率もどんどん高まるのかもしれない。

でも、その無意識はある種、罪悪感とも言えるから、罪悪感がなくなればまた状況も変わる。罪悪感は罰があたることで解消しようとする傾向があるから、人類は無意識に大いなる罰を受けようとしているのかもしれないが、罪悪感は罰を受けて解消するというほかに心を入れ替えて償いの行動に出ることによっても解消できる。だってこの罰はダメージがデカ過ぎるよ。人間の外に神なるものがいて、人間にその罪を気がつかせるために天変地異を起こすと考えてもいいけど、ゼランドに限らず世のスピリチュアリストたちが言うように我々の外に神がいるのではなく、我々こそが神の一部いや神ならば、自分たちでしでかした悪事も自分たちなりに始末をつけられるんじゃないだろうか。しでかしちゃったものはもうしょうがないが、かといって座して罰を待ってるだけじゃ、先のゼランドの言葉で言えば、成り行き任せの小流を進んでるだけになる。それじゃ『日月神示』の大難も小難にできない。梶棒を持って、より良い方向へ小舟を進めなければならない。小舟じゃないな、人類の無意識のことだから大船だ。でも小舟からはじめるしかない。

ちょっと長くなったので。

とりあえず予言に関する一ロシア人の一考察だ。そして私もほぼ同意してます。ほぼというのは、一日本人としての私の考えもほかにちびっとはあるからで、また今度世に問うてみたいと思います。

自分で書いて笑っちゃったが、世に問うってほどのもんじゃないわな。

予言2

私にしては早い更新だ。今後は、見知ったアフォリズムめいたものでもいいから毎日でも発信したほうがいいかな。

昨日、いや一昨日か、レイ・ブラッドベリの訃報が入った。ここ数年はときどきだがいつかはそうなるだろうとちょっと恐れてもいた。恐れていたというのは、自分の怠慢ゆえだ。私は過去2回、同じような後悔を持ったことがある。大山倍達のときと淀川長治のときだ。両者ともどうにも気なっていた人で、一度は会ってみたい、あるいは文書でも何でも交信してみたいと思っていた。行動に出ればよかったのは言うまでもないが、なぜか、怠けていた。ほかのこと、もっとつまらないことや仕事上のこと、プライベートでのこと、人生上のこと(ちょっと大げさかも)など、ときには人に非難されるくらいアグレッシヴになるのに、なんでだろうと自分でも思ったが、やっぱりただの怠慢なのだろう。そしてブラッドベリだ。

私はブラッドベリがかなり好きで、作品はほぼ持っているし読んでいる。短篇集『10月はたそがれの国』や『太陽の黄金(きん)の林檎』などの短篇集が好きだった。『火星年代記』や『華氏451度』みたいのもあるけど、やはりブラッドベリは短編だ。小説というよりは詩だ。フィクションというよりはファンタジーだ。そういえば大学の先輩がSFはもはやSpace FictionじゃなくSatisfactory Fantasyだって言ってたっけ。先の『太陽の~』の表題作や『10月は~』収録の「下水道」なんか、もう何て言っていいかわからない。繰り返し読むしかない。好きな映画と同じだな。でも、ブラッドベリは火星のことをよく書いたが、今になってハッとさせられるものもある。最先端であるところの量子物理学に基づいたある種の世界観のようなものをすでに短編として詩的に昇華、表現していたんだなみたいな。

ともかく、ぐずぐずしてて大山倍達や淀川さんにコンタクトをとらず、ふたりとも故人になってしまった後悔から、ブラッドベリには手紙を出そうと思っていた。意外と返事をくれるということも調べていたし、住所も知っていた。早くしないと死んじゃうとも思ってたが、あのじいさんなら100歳は生きるだろうとも思っていたのだが・・・。ただのミーハーで真剣さが足りなかったからだと言われれば反論できない。真剣さ?ではないな、なんだろう。大山倍達のときも淀川さんのときも、しまった!と思った。そして今回もだ。カミさんみたいにどんなに好きでもファンでも会わなくてもいい、むしろ会わないほうがいいという人もいるが、私はやはり会ってみたいし、なにかしら触れてみたい。っていうとフェチっぽいな。手紙でも電話でもいいんだけど。私は好きな作家の書いた原稿とかわりと好きだ。バカ高いのは無理だが、署名本だと手に入る。

まあ、また後悔しないようにコリン・ウィルソンには手紙を出してみるか。

ブラッドベリのことはほんの一部、以前記事で書いたが(あの言葉は好きなんです)、あれはゼランドの予言に関する記事の流れで出てきたものだが、なんとなくまた予言についてゼランドが言ってることに触れたくなった。と言っても、これから韓国に行かなきゃなんなくてどこまで書けるかわからない。尻切れトンボになったら次回続きを書きます。

まず、「運命」につてはこんなことを言っている。

運命についての問題とは、予め定められた運命を選ぶか、それとも自由な運命を選ぶか、という選択の問題なのである。要するに、選んだものを受け取るとあなたが確信するだけのことである。

このへんはトランサーファーの基本だ。嫌な状況に遭遇し、それが自分のカルマ、あるいはなにかしらの罰だととらえれば、そうなる。そういった想念、思考は無限の可能性が格納されているゼロポイントエネルギー(ゼランドはそれをバリアントの空間と呼ぶ)にあるそういった現実の流れを本当に現実として物質化、現象化させる。世界は基本的に自分の意のままなのだ。ただ意のままにコントロールするにはコツというか法則がある。それは理性と魂を一致させることだ。理性と魂が一致しないと現実化は起こらない。理性が納得し信念を持ってても魂が嫌がってればダメだ。魂が望んでても理性が理屈で否定すればばダメだ。

例えば、今、魂が酒を飲みたいと思ってても(仮にの話です。魂が具体的なものとして酒を求めるはずがない。魂は快、不快の快を求めるだけだ)理性が今は禁酒中だからとか勤務中だからと規制すれば現実には酒を飲むような流れにはならない。これはある種、当たり前か。でも、理性が酒が飲みたいと強烈に思ってて、例えば、仕事のし過ぎでストレスその他、体をリラックスさせる必要があるとかなんとかどうにでも理屈をつけてそう思ってて、魂のほうは、酒はともかく、酒を飲んで超リラックスしているという自分の状況を望んでいるとすると、ここで理性と魂の一致が起きて、ゼロポイントエネルギーの場から酒を飲むような現実のラインを本当に現象化させる。

トランサーフィンのすごいところは、その現実の流れ、方法は考えなくていいことだ。とにかく酒を飲んでリラックスするということで理性と魂が一致さえすれば、あとは勝手にゼロポイントエネルギーフィールドがお膳立てしてくれる。エネルギーは無駄なことはいっさいしない。一番効率のよい、エネルギーのかからない方法で現実化させる。むしろ理性があーだこーだと自分の狭っ苦しい理屈の中で流れを望むと余計な無駄なエネルギーがかかり、せっかくゼロポイントフィールドが自分のために効率よく現実をお膳立てしてくれようとしてるのにぶち壊しになる。だから、まかせればいい。そうすれば、理性が想像もしていなかったような現実、たとえば、勤務中なら社長がいきなりやってきて、そう言えば今日は会社の創立20周年だったからみんなでビールでも飲みに行こうと言い出すとか、禁酒中だったら、病院から電話がかかってきて、スミマセン、この間の検査の結果はこちらのミスで他人のものでした、あなたは禁酒する必要はありません、でもお酒はひかえてネ、と言われるとか、そういうことが本当に起きる。

これはバカバカしいくらい極端な話だが、まあそういうことだ。

ああ、時間がない。予言までとうていたどりつけない。いったん切り上げます。10日に帰ってくるから、10日の夜にでもまた書きます。

熊本行

ああ、またもやエネルギーの借金返済に追われた1週間が過ぎた。ゼランドさん私はどうしようもないスーダラ男です。宵越しの金もエネルギーも持たないヤツにトランサーファーを気取る資格はありますか?

熊本の幣立神宮でのイベントも無事終了っても私はただ飲んでただけか。

前の晩に熊本城の近くでパワースポットの企画でお世話になった神主の天野雅道氏と会食したのだが、酒を飲まない氏と別れてからがいけなかった。飲み足りなかったのでちょいとひとりでもう一杯のつもりだったのだが、案の定いつのまにやらはしご酒。気がつきゃ居酒屋の店主と意気投合し…ハッと目覚めたホテルの部屋。遅刻しちゃまずいとあわてて市電に乗って熊本駅へ。

市電の狭い向かい合わせのボックス席で二日酔いの頭を抱えているとチューリップハットをかぶったおばあちゃんが私の前に座った。言っちゃあなんだがいかりや長介にそっくりで、首をぶるぶる左右に振って何ごとか話し出す。…とっとよ、だけん…と熊本弁でまったく脈絡のないことをえんえんと話している。向かいには私しかいないので、私に何か話しかけてるのかとも思ったが、完璧にひとり言のようだ。周りの乗客は聞こえないことにしてる。おばあちゃんのひとり言が続く中、市電はかろやかに駅に向かう。するとまた別のおばあちゃんが乗り込んできた。空いてる席がちょっと離れていたからか、市電が走り出すとおばあちゃんは私のそばのポールにつかまって移動しようかどうか迷っているふう。体がしんどかったが席を譲ろうとすると、私の後ろのほうの席から「ばあさん!こっちに座りなよ!」とデカイ声が。何だ?と見ると、ま緑のTシャツにカーキ色の作業ズボンにまっ白い長靴をはいた真っ赤に日焼けしたコボちゃんヘアを短くしたようなオヤジが目を三角にしてガナっている。「こっち!ここここ!」と立って自分の席を指さしている。おばあちゃんは、コワイからあっちいこ、とつぶやいて離れたほうの席へ。「ばあさん!遠慮すんなよ!」とまたもやオヤジはデカイ声で叫ぶが、おばあさんが別の席に座るのを見ると、なんだよ、オレのおふくろみてえだからさ、とかなんとかつぶやきながら席に座った。

なんとなく親近感がわいてオヤジを観察していると、ぶつぶつ言いながらビニール袋から「かのこ」の900ml紙パックを取り出して包装をはいでグビグビと飲みだした。おおーっ!と出かかった声を飲み込んで、これは夕べの続きかしらと思ったがやはり朝の10時だった。恐るべし熊本。オヤジは手元のビニール袋を落として中の柿の種や飴玉を床にばらまいたり、回収し忘れた飴玉を隣のおばさんに拾ってもらって根本敬ばりのイイ顔系の笑顔を見せたり、財布の中身を確認してみたり(きっと駅でまた飲むのだろう)しながら快調に終点まで飲み続けた。駅に着くと、オヤジはタバコをくわえビニール袋をゆらゆらさせてどこぞへと(たぶん酒飲みに)歩いて行った。私は後ろ髪を引かれる思いでオヤジに背を向けて駅へと向かったが、たまらず振り返るとオヤジはもう小さくなっていた。緑のTシャツと白い長靴がヤケにまぶしい。ううぅ、一緒に飲みたいと思ったがさすがにそれはまずい。若いころ(ほんとは今も)、よく酒場で知り合ったイイ顔系のオヤジと飲んだ。一緒にクラブに行って踊ったこともあったが、オヤジの踊りは阿波踊りなのか盆踊りなのかどこかの部族の踊りなのかわからない踊りで、周囲の客を思いっきり引かせた。朝方、家に連れてきたときはカミさん怒ったね。寝てるのをいいことにオヤジの背中を蹴飛ばしてたもんなあ。

そんなことを思い出しながらなんか飯でも買おうと駅の階段を上ったら、階段の下の薄っ暗いスペースでおばあちゃんがウンコ座りしてアメリカンドッグを食っている。よく見たら市電で正面に座っていた首振りおばあちゃんだった。

豊肥線の車内で弁当を食って立野に着くと周りは山しかない。さて、どうやって幣立神宮に行くんだっけと思案してると、駅前にポツンと峠の茶屋が。小雨の中、小走りに茶屋に入ると店のおばあちゃんと客のおじいちゃんが飯食ってる。ここから幣立神宮に行くにはタクシーしかないと。それかトロッコ列車で高森まで行って、そこからバスかタクシー。トロッコ列車か…とつぶやいたら、おじいちゃんが、46分!と叫ぶ。15分後だ。それで行こうと礼を言いかけたら、アンタ、昼ごはん食べて行かんね? とおばあちゃん。見るとうまそうなおにぎり弁当がある。梅干しと野沢菜とこんぶの小粒のおにぎり3つと鳥の唐揚げ、玉子焼き、かまぼこ。素朴な田舎弁当だ。「すみません、もう食べました」「売れ残ったとよ。今日は雨でお客さんが来んかったけん」うーむ。せめて水でも買おうとしたら、オヤジの客がひとり入ってきた。「けんちゃん、昼食べてかんね?」みんな地元民らしい。けんおじさんは何も言わずに割箸を受け取った。「じゃあ、オレもひとついただいていきますわ」私もなんとなく流れで弁当を取って代金を払うと、おじいちゃんたちがワハハと笑った。

トロッコ列車でおにぎりを食うと、これがしょっぱい。梅干しなんかもじょりっとする塩がまぶしてある。でもうまい。これは山田さんのブログにある通りだ。私も先にバカボンさんの情報を得ていたら、「も!」と言ったのに。高森に着いてタクシーで幣立へ。二日酔いの頭と食い過ぎの腹を抱えて階段を上るとバカボンさん、小麦ちゃん、anさんたちと合流。初対面のゆかりさんに「二日酔いです」って「二日酔い」という名前だと思われたんじゃないだろうかと思いつつ参拝すると、宮司さんが奥からささっと寄ってきていきなり御幣を振ってお祓いを。これって普通なんだろうか。何か邪悪なヤツが来たと思われたのかしら。それとも酒くさかった? 怖くて誰にも聞けなかったのだが。

その後のことはまたもやバカボンさんのブログ通りだが、私は翌日阿蘇に行きました。風向きがよくて火口まで行けた。壮大なカルデラ、噴煙もうもうで完全には見えなかったが、エメラルドグリーンの湯だまりも見えた。

幣立イベントでのことはいろいろ書きたいこともあるが、今回は日記ふうに。次回以降、また成り行きまかせの記事の中で触れていく。ひとつだけ、神主の天野さんとの話の中で印象に残ったことを。

魂は円居(まどい)、集(つど)って楽しむためにこの世に生まれた。

そう思わせるものが今回の幣立にもたしかにあったように感じる。

それにしても最終日、ちょっと予定も変わったのだが、家に連絡せずに帰宅すると誰もいない。カミさんに電話すると、「帰って来たんだ? 火口に落ちたのかと思ってた」
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Author:∞酒林∞
世の中の皆様こんにちは。
私はただの夢見る酔っぱらい。
夜な夜な昼間にそば屋うなぎ屋ラーメン屋、
飲んで歌って吠えてます。
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帰ってくるのか酔っぱらい。

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