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そして、神戸

また2週間経っちまったか・・・。

先週、野暮用で神戸行ってきました。尼崎じゃなくて三宮。初めての神戸だが大阪とはまた違ったノリなんだな。夕方早い時間から酒場求めて繁華な場所ほっつき歩いてたら、あったあったいい感じの店が。勇んで覗こうと店の戸口に手を掛けたら、瞬間、ゲゲゲの鬼太郎のように頭のてっぺんにアンテナが立ったね。オヨ?何だろう、と不思議に思ったらゲロ踏んでました。おおーっ!もうゲロかよ。早ぇだろ! 

三宮恐るべし。

しかし尼崎の殺人事件はどうなってんだまったく。前回の記事じゃないが、ほんとに『黒い家』だわ。鬼畜としか言いようがない。いったい何人殺してんだ? 津山の30人殺しじゃないんだから。でも津山事件はその背景というか心情というか、情動的なものとしてまだ理解の範疇にあるようにも思えるが、これは保険金殺人だろ。容疑者の段階であれこれ言うのは避けたいところだが・・・

連続殺人と言えば、昔、三島由紀夫と大江健三郎が対談してた。殺人を巡ってこいつら何を言ってんだ?とちょっと驚いたことがある。たしか大江がコリン・ウィルソンの『殺人百科』に言及したときだ、三島が間髪入れず「素晴らしい!」と絶賛した。『殺人百科』は切り裂きジャックなど欧米のいろいろな殺人鬼についてC.ウィルソンが研究した本だが、三島と大江が大いに盛り上がるのだ。大江は、なんとかという殺人鬼の、たしか死姦マニアだったと思うが、墓から死体を掘り出したはよかったがどうしていいかわからず泣き出してしまったというエピソードに触れて、感動したとかなんとかとにかく感激してみせる。すると三島も、ドイツの連続殺人鬼、あのデュッセルドルフのペーター・キュルテンが人を殺したあと悠々と街へ帰っていくのだが、その姿を夕日が赤々と照らしていたとかなんとかの表現で、「素晴らしい!」とかなんとかこれまた賞賛する。

さすがにノーベル賞作家クラスの感性は違うものだと妙に感心したことがある。もっとも当時は大江はド新人だし、三島がようやく候補を取り沙汰されてたくらいだったが。

ともかく、そのときの大江の言に、日本人はたいていひとりふたり殺したあたりで自己崩壊するが、外国人は徹底してるといったようなものもあった。大作家というのは殺人でもなんでもおのれの芸術的美的鑑賞の対象にすることができるのだなあと妙に感心した。イヤミではない。本当にそう思ったのだ。石原慎太郎にしたって、なんだっけ?『殺人教室』だったか、とにかく作品の中で登場人物を殺しまくってた。笑えるのは、あまり仲のよろしくない三島らしき人物まで「五島」とかの名前で登場させ、バーベルを上げたところをライフルで殺している。作家って人殺しが好きなのね。でもあの村上春樹は、初期のどこかの小説で、すぐれた小説とはセックス描写がないことと人が死なないことだみたいなことを書いていた。

とは言っても、古今東西、おそらくどこの国でも普遍的に人気のあるミステリー小説やドラマは例外なく殺人事件の物語だ。人の興味はつまるところ「死」しかないのかもしれない。他殺でも自殺でも事故でも、そこにいたるドラマツルギーが人を魅了してやまない。

そういえば、こないだ副島隆彦の『隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか?』を面白く読んだが、副島氏の考えとして、人間は死んだらおしまいで無になるだけだ、とあってちょっと驚いた。ひょっとしたらそう思ってるだろうとは予想していたが本当にそうなんだって感じ。人は、死んだら終わり、と思うか、あるいは死後の世界というかいわゆる現世、三次元、なんでもいいが、この現実とは違った世界なり形態なりに移行すると信じてるかどうかで、生きる意味が変わってくると思っていた。私がね。だって、死んだらおしまいってのと、死んだあとは天国でも地獄でもいいが、とにかく終わりではなくまだ世界が続くってのではまるで違うだろ。生き方も違ってくるだろ。違わない? 

でも、先の副島氏の決然とした意見というか考えに触れてちょっと待てよと。死んだら死にきりでおしまいだとしたら(そういえば吉本隆明もこっち系だったような)、人によっては、だから後悔しないように好き勝手なことをしよう(犯罪も含めて)と思うだろうし、一度しかない人生なんだから人に迷惑をかけるのではなく、せめて人のためになるように正しく生きようと思うヤツもいるだろう。

要するに、死んだら死にきりでも、死後の世界があろうとも、結局は現実の世界をどう生きるかは人によって変わるだけで、どっちでもいいんじゃないかということになりはしないかとふと思ったわけだ。

でもこれはやはり狭い考え方だ。人間の生死を虹のスペクトルのように紫から赤までと決めつけたビジョンだ。当たり前だが、可視光線以外に紫外線もあれば赤外線もある。人によっては可視光線以外の光つまり電磁波を感じたり、見たりする能力がある。いまの科学で言えば、とりあえずこの世のものはすべてエネルギーなので、人の能力の開発しだいによっては生死の捉え方もこれからは変わる。そしてどうやらそういった開発方法や開発方法に関する知識が急速に表面に出だした感がある。そういった知識や方法論の露出がある一定量を超えたときに「百匹めの猿」現象が起きて一挙に広まる可能性がある。

言うまでもないが「百匹めの猿」とは、ある島の一匹の猿が芋についた砂を洗って食べることを覚えたら、ほかの猿もマネをしはじめた。そして島の猿百匹がマネしたとき、全世界の猿が同時に芋を洗って食べはじめた。シェルドレイクの形態場理論だ。新しい現象、想念がある一定の分量になるとその現象なり想念の形は空間も時間も超えて伝播する。伝播じゃないか。なんと言うか、瞬時にその磁場のようなものが形成される。だから社会形態でも経済システムでも生死の捉え方でもなんでも、ある人間の集団の新しい認識なり試みが一瞬にして全世界に広がることがあり得る。最初はひとりでいいのだ。

だから人ひとりの想念の力もバカにできない。世界が滅んでしまえばいいといったひとりの想念もバカにできない。われわれは陰謀でも利己主義でもうらみつらみでも、ともかくいろいろな事情で攻撃をしかけてくるヤカラに恐怖することなく、不安になることなく、自分の仕事をするしかない。仕事だ、もはや。ゼランドふうに言えば、場に余計な擾乱を巻き起こさせないように自分の重要度をチェックし、欲っするもの望ましいものを当たり前に手に入れていくのは仕事なのだ。またアランふうに言えば幸福になるのは義務だ。なぜなら人は自分が幸福にならなければ他人を幸福にできないからだ。ということらしい。

なんでこんな話になったのか。神戸だ。尼崎ときて殺人事件だ。あまり感心した話題じゃなかったな。口直しに小話を。

ある人が死んであの世に行った。神様がいた。神様はその人のこれまでの人生を映し出して見せた。その人は感動した。なぜならその人の足跡と一緒に常に神様の足跡もあったからだ。神様はいつでもそばにいて自分を見守ってくれていたのだ。しかしふと見ると、自分が一番辛かったときに限って足跡がひとつしかなかった。その人は神様に言った。「ひどいじゃないですか! 私が一番辛い時期にほうっておくなんて!」神様は言った。「なにを言っておるのじゃ。あれはお前さんを抱き上げて歩いたわしの足跡じゃよ」

こういう話のほうがいいな。甘い?
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モンティ・ホール問題

もはや言い訳はすまい。

筆不精もいいところだが、私は今、無精ひげをだらしなく生やし、不承不承PCの前にいる。不承不承というのは面倒くさいとか書くのが嫌だとかいうことではなく、2時間後の6時には来日してる韓国の知人と食事というか飲まなければならないので、どうせ飲んだらまた今日も書けず、明日にしたって男には7人の敵がいるといわれるあの外の世界に向こう一週間出かけることになり、7人もの敵と戦えば疲れるだろうからどうせまた夜飲んで書けず・・・となるのが目に見えてるから、今ただちに記事を書こうとするのだが、時間がなくてじっくり考えることもできずに書くわけだからロクなもんじゃないだろうと忸怩たる思いにも駆られ、でも書かなくちゃいけないだろうから、不承不承なのである。

まあ、たわ言はいいわ。

この前知人に貴志祐介の『悪の教典』を借りて読んだ。スゴイから読めということだったのだが、私としてはイマイチだった。初期の『黒い家』ほどのインパクトはないし、『天使の囀り』のような斬新さもない。ただ、貴志祐介という作家は、人を思いやるという普通の感情を生まれながらに持たないサイコといった人物像にやはり興味があるのだなあとあらためて思った。『黒い家』は衝撃だったからね。というか、個人的にはああいう小説はワリと怖いというかある種の嫌悪感がある。先の『天使の囀り』にも何か嫌悪感を感じた。嫌悪感というのは私の場合必ずしも非難ではないのだが、いずれにしろ何かしらの感動を与えられたのはたしかだが、この嫌悪感はまた今度考えてみよう。

『黒い家』は映画もよかった。小説の世界感をうまく出していたし、何と言っても大竹しのぶの怪演が光っていた。まあ、この『悪の教典』もずいぶんと映画にしやすそうな内容だ。でも貴志祐介はあまり好きではないな。

この『悪の教典』の中で軽いエピソードとしてある問題というかクイズのようなものが紹介されている。私流に簡略化して言うと、

ここに3コの箱、ABCがある。1コの箱の中にだけアタリがある。あとの2コはハズレというか空だ。あなたはどれがアタリかを考え、まあAを選んだとする。すると出題者は、残りの箱BとCのうちCを開けて見せる。ハズレ、空だ。そこで出題者は、あなたはAを選びましたが、再度AかBかもう一度選び直すことができます、と言う。ここで問題です。最初にAを選んだときに当たる確率と、2度目にAかBか選び直したときに当たる確率を求めなさい。

最初にAを選んだときは、ABCの3コの箱のうちから1コを選ぶんだから、三分の一、つまり確率は33.3%、2度めのときは、ハズレを1コ除外したとはいえ、AかBのうち1コを選ぶんだから二分の一、つまり50%、そう答えた方、私はあなたの味方です。

もちろん答えは違う。最初のAは33.3%でいいが、2度めは、Aは33.3%のままだがBの確率は66.6%にハネ上がる。ちょっとした数学だが、説明が面倒だ。これはモンティ・ホール問題といって有名な問題らしいが私は知らなかった。そして、その正解の説明を読んだとき強烈な違和感を持った。

正解の詳細な説明は上記リンク先のネットでもなんでもあるので読んでもらうとして、簡単に言うと、最初のABCそれぞれの確率は等しく33.3%だが、Aが33.3%だとすると、残りのBCをまとめて選べるとした場合、BかCにアタリがある確率は66.6%になる。上の問題の場合、そのうちの1コCを除外しただけだからBの確率が66.6%になる。つまり、2度めに選ぶ場合は、Bにしたほうが当たる確率が上がるというわけだ。

うまくイメージできない人がいるなら、当たらない確率から考えたほうがわかりやすいかもしれない。最初のチョイスでは当たる確率は33.3%だが当たらない確率は66.6%だ。当たらない確率のほうが高いわけだ。当たり前だ。3コのうち2コはハズレなんだから。となると、最初のチョイスでハズレを選んだと仮定すると、2度めのチョイスでは最初に選んだものではなく残ったものを選べば確実に当たる。だって出題者がハズレのほうを開けて見せてくれているんだから。パターンは下記の3つしかない。

A    B    C
アタリ  ハズレ  ハズレ
ハズレ  アタリ  ハズレ
ハズレ  ハズレ  アタリ

つまり、2度めに選ぶ場合、Aがアタリになるのは最初に選んだAがアタリのときしか当たらない。だから、2度めにチョイスする場合は、最初のものとは変えたほうが確率論的には有利だということだ。

違和感を持った人、手を挙げてください。いませんか?

私はものすごく違和感を持つ。なぜか。それは、最初の選択が間違っているかもしれないという前提で展開されてる論だからだ。たしかに確率論的にというか数学的には正しいのだろう。だから、2回めの選択のときには最初に決めたものと違ったものを選んだほうが得なのだ。でも、人は何かを選ぶとき、その人の性格的、環境的、思想的、なんでもいいが、その人独自のバックボーンによって決め方は違うだろうが、まずは当てようと思って一生懸命考えるんじゃないか? いや別に考えなくても頭カラッポでもいいが、またそのほうがいい方向に行くのは間違いないが、今はその話ではない。

何が言いたいのかというと、人が何かを決断する場合、積極的な方向、前向きな方向に向かって決めるのが普通じゃないかと思うわけだ。先の問題で言えば、Aが当たると思って選ぶわけだろう。よし、この箱がハズレだと思っては選ばないだろう。そう思ったら消去法で違う箱に絞っていくだろう。ここでミソなのは、最初AならAと決めたあとに、出題者とやらがCのハズレを見せて、再度また、さあどうしますか?と言わんばかりに選ばせる、つまり惑わせる。不安にさせる。だから、確率論的にどうであろうが、最初にAを選んだのなら、出題者がどんな小細工しようが、2度めもAでいいのだ。Bでもいいが、少なくともAとBは50%の確率だということで選び直せばいい。そういった態度というか考え方というか、そっちのほうが正しいと信じるのは私だけか?ひょっとして。

世の中にはそのテのゴマカシというかマヤカシが溢れてる。数学は一つの思考実験というかゲームというか、ある枠内で通用する遊びごとだ。どんな数式だって、=(イコール)の左右が等しくなるようにあーだこーだ言ったり妙な函数を発明してるにすぎない。

数学的には正しいのかもしれないが、最初にまず間違ってる可能性を考えるというのは、人間を消極的にさせる。リスクがあろうが、可能性が低かろうが、その人間が達成できると本気で決めたら事態は変わるのだ。量子物理学の観測者効果でもそうだが(突然だが、今りょうしぶつりがくと打って変換したら、漁師物理学と出てずっこけた)、私は実は量子論も仮説としか思っていないし、今度は何が出てくるやらといった感じで待っている。じゃないと、量子論ではこうなんだから、といったただの仮説を金科玉条にして異説を排除するような500年前と同じ誤ちを犯すことになる。

いかんまた話が飛びそうだ。

ともかく、数学は危険な側面があるということだ。数にしたって便宜上発明されたんだろう。古代は、ひとつ、ふたつ、あとはたくさん、といった概念しかなかったという説もある。つまり、木の実でもきのこでもいっぱい採って、ひとつはあなたに、もうひとつは私に、あとはみんなに、ということだ。

余計な数学的な計算の果てが金融工学だろ? で、クラッシュだ。いいことは何もないよ。ただ数学的な目くらましを使ったほうが人を支配しやすいわね。論争でも議論でも、数字的な事実を突きつけられたほうがだいたいまごつく。

だから、先の問題で2度目めの選択は50%と思った人には親近感を感じるしだいであります。決して数学が苦手な私のヘリクツではない。

時間がない。案の定の尻切れトンボ。
外出しますわ。雨はあがったのかなあ・・・

トホホ

震撼している。

あろうことか1ヶ月も経ってしまった。違う次元に行ってましたってウソをつこうかとも思ったが今日び冗談にもならない。なんたるちあ。たしかに韓国行ったり、もろもろ新企画の策動にまつわる打ち合わせなど、仕事と酒に追われていたことはある。仕事と酒・・・仕事
しかし1ヶ月も空けるなど初めてだ。いらん配慮かもしれないが、万が一ご心配おかけした方がいらしたら申し訳ありません。

もはや前回何を書いたか忘れてる。と言ってブログをチェックしたりする。ああ、そうだ。プラトンの話を書こうとしたが、気になったことを羅列したのだった。でも、ピラミッドやクロップサークルが古代文明というか古代の人類からのメッセージだというのは個人的にはものすごく気になっているのは確かだ。前回のパーン・アンドフのガンマバーストによる太陽の巨大化や以前の記事に書いたイオン・アルゲイン氏の太陽の伴星の話などには妙に信ぴょう性があるように感じている。これは最近またにわかに取り上げられ始めた惑星ニビルとの関連でも興味深い。

でも、イオンさんは確か太陽の伴星の本ではニビルには触れていなかったように思う。太陽の伴星とニビルは違うのか、それとも取り上げないワケがあるのか。ただ単に太陽の伴星とニビルが違うのであれば、ニビルとは違うとかなんとか書いてもいいように思うし、これはやっぱり何か触れないワケがあるのだろうが、この書籍ではまずオカルト色を極力排除したかったと氏自身が書いているから、基本的にはNASAも否定しているニビルという惑星の名を出すのは避けたのだろう。学術書とまでは言わないが、いわゆるトンデモ本系には見られたくないというイオン氏のアピールにどこかしら決然としたものも感じ、何やら深刻さを感じるわけだ。

と思ってイオンさんのブログをチェックすると更新されていて、2012年12月21日は、太陽の伴星の地球に対する影響が始まる時期だということらしい。で、一番地球に影響をもたらすのは2050年だとある。ニビルは3600年周期で地球に接近し災害をもたらすとされているから、約2万6000年周期のイオン氏の言うところの太陽の伴星とはそもそも違うものかもしれないが、ゼカリヤ・シッチンを始め、これまであれこれ言われてきたニビル情報の正解版がイオン説であるように思えてしょうがないのはなぜだろう。氏はしかもその災害は防ぐことができるとし、それには人類がいろいろと協調していかなくてはならないと言い、その具体例も提案している。

先のパーン・アンドフのガンマバーストが2012年12月23日に太陽に到達し太陽が膨張し赤色巨星となり、2013年3月28日に収束するという説も、五井野正博士が2013年2月14日を危険日としてることと合わせると興味深いが、地球外生命体などの力を借りてフラワー・オブ・ライフの瞑想を皆んな行なえば地球にシールドを張れるというのはどうだろうか。いや、祈りの力はデカい。想念はもっとも大事な力だし、人類の集合意識が地球のエーテルエネルギーに影響を及ぼすというかそもそもが地球に起こることは人類の想念によるところが大きい。人間なら誰であれ例外なくその意識・想念は地球に影響を与えるが、問題はその規模だ。時空でさえ大多数の人間による合意の賜物に過ぎない。ゲリー・ボーネルの言葉を借りれば、

(略)出来事を時間軸にそって順番に体験、観察したいという集合意識の必要性のみが、時間と空間を作り出しています。したがって私たちは個人的にも、集合的にも、地上すべての生命体のために、「時空」に関する制限や境界線をシフトするという合意に達することができます。目覚めた存在は、地球のスピリットとロゴスとともに、エネルギー(物質)を再生し、必要なものを現実化することが可能です。
 私たちが顕在意識を通して「時間」に、潜在意識を通して「空間」に指示を与えられることを理解したとき、意図的に物質に変化を起こせるようになります。そうなれば最も大きな影響を与えている二つの要素、「時間」と「空間」を変えることができはじめるわけです。


というわけだ。だから規模は需要だ。人間の意識・想念の規模ね。量というか。その点で言えば、アンドフの瞑想の話は本当だ。世界中の相当規模の人間がフラワーなんとかでもいいが、祈れば、それこそ地球にシールドでもなんでもできるだろう。でも個人的にはそういう事態にはあまり期待できない。というか現実的でない気がする。今から緻密に予想したり計画したりするような形ではなく、おそらく日々の営みの中で、いろいろな現実的な事柄の積み重ねで、結果的に何かが始まるだけだ。で、日々の営みやいろいろな現実的な事柄を決定するのは各人の意識・想念だ。だから、影響力のあるメディア、テレビでも新聞でも雑誌でも有名人の発言でもブロガーの記事でも、ネガティブなことは発信しないほうがいいだろう。つまらないグチだとか誰かの悪口・批判だとかはどうでもいいが、ゼランドが言うように大災害・大惨事に関する予言・予知のようなものはただではすまなくなる可能性があるからだ。

がしかし、私見としては、本来人間誰もが持っている現実を自由に創造していく力というか叡智によれば何も心配はないと思う。で、レムリア、アトランティスのことを書きたいのだが、私の生半可な知識ではなかなかうまくいきそうもない。プラトンのことを書こうと思ったのも、そもそもアトランティスはプラトンが書いたものから出てきた話だし、プラトンの母ペリクチオーネはアポロ神によってプラトンを処女懐胎したって話もあるくらいだから(処女懐胎はレムリア、アトランティスから続くアセンションに関する重要なキーワードだ)、プラトンの話というか書いたものはレムリアやアトランティスの時代にあった叡智に通じている。と思う。とくに魂の話はそうだ。

話がややこしくなってきたな。なんだっけ。予言だっけ。いや、予言については前に何回かに分けて書いたからいいか。要は未来は決まっていない。というか自分が決めた未来しかない。他人の予言や予知に自分の未来を託すのはやめよう。とくに自分にとって望ましくない未来の話には。ということだ。

そう言えば、あるメルマガの情報によれば、周囲のサイキックの最近の意見として共通しているのは、首都直下型の大地震の危険性は当分なくなったということだそうだ。最も危険だったのは昨年の12月と今年の6月だったとか。ひょっとしたら何かを回避したタイムラインにのったのかもしれないが、天変地異、とくに地震や火山噴火などはいつきてもおかしくないということで防災意識をときどき高めることは当たり前だし、それだけで十分だろう。しつこいようだが、先の太陽の伴星のほうが個人的には気になるし、専門家も巻き込んで、事の詳細・真偽を早いとこ調査するほうが先決のように思うのだが・・・。

なまじっか前回の記事を読んだりしたから、何か似たような前回の続きのような内容になってしまった。とっちらかるのも変わらないし、やはり酒とかの話でもしてるほうがいいのかしら。
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∞酒林∞

Author:∞酒林∞
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